♰THE ONE NEVER FORGET MIKIO FUJIOKA ♰
★今日のベビメタ
本日、3月29日は、2015年、さくら学院2014年度卒業式が行われ、水野由結、菊地最愛が卒業した日DEATH。
1980年を境にデジタル化が進んだと書いたが、それはあくまで最先端オーディオの話であって、庶民にはとっては1970年代から1980年代半ばまでは、アナログレコード(EP、LP)とラジカセの時代だった。
1970年代の一般家庭では、ステレオというものは、一体型かシステムコンポかの違いはあっても、テレビ同様、一家のリビングルームに鎮座ましましていて、子どもが勝手に触ってはいけないモノであった。
子どもが自分の持ち物として好き勝手に使える音楽ガジェットは、ラジカセだった。
国産初のラジカセは、1968年に発売されたアイワ製TPR-101であるとされている。本体にマイクが内蔵されたカセットテレコにラジオとスピーカーがつき、乾電池駆動が可能で、持ち運び用のハンドルがついていた。
当時、オープンリールのテープレコーダーや、単体のカセットテレコは存在していたが、それにトランジスタラジオを合体させるという発想自体が斬新だった。オープンリールのテープレコーダーは、音楽を録音するプロユースが中心であり、音質の悪いカセットテレコは、会議の音声を録音して書き起こすために使うもので、個人で音楽を聴くための装置ではなかったからだ。
しかし、ラジオが聴け、モノラルで音質に難のあるカセットテープであっても、個人が気軽に録音できるラジカセは爆発的にヒットし、多くのメーカーが競って新製品を発売した。ラジカセは、トランジスタラジオに代わって、日本を代表する輸出製品になった。
1970年代後半にはスピーカーが2つになってステレオ化し、さらにカセットスロットが2つ付いて1台で「ダビング」が可能になったりした。
リビングルームにバカでかいステレオが鎮座するのと並行して、若者や子どもたちにとっては、ラジカセこそ手軽なオールインワンの音楽ガジェットだったのである。
ラジカセで音楽を聴くには、4つの方法があった。
1.ラジオをそのまま聴く。「セイヤング」(文化放送)や「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)は、若者文化のコミュニティだった。
2.ラジオ放送の楽曲の部分をカセットで録音する。これが一番音質がよく、特にFM放送からの録音は、「エアチェック」と呼ばれた。ロックファンにとってNHK-FMでロック専門番組をやっていたロック評論家渋谷陽一、現Rockin’ On社長はヒーローだった。
3.付属のマイクでテレビの歌番組を録音する。当時のテレビは音楽番組が多く、お母さんから「そんなに近づいたら目が悪くなるでしょ」とか言われると、その声が入っちゃうので「シーッ」と言う声まで入っちゃうのが難点だった。
4.ステレオのヘッドフォンジャックやテレビのイヤホンジャックとラジカセのAUX-IN端子をケーブルでつなぎ、インピーダンスが違うのに無理やりライン録りして歪んだ音で録音する。標準サイズのプラグのついたケーブルとミニサイズのプラグのついたケーブルを途中で切ってつなぐという荒業もあった。
やがてテレビやステレオにもAUX-OUTジャックがつき、ステレオ→モノラルなど各種ケーブルが売られるようになって、お目当ての楽曲だけをクリアに録音できるようになった。
ただ、ラジカセで録音するには、赤い「REC」というボタンと「PLAY」というボタンを同時に押さなくてはならず、タイミングが難しかった。そのため、「REC」と「PLAY」の他に「POSE」というボタンを同時に押しておいて、良きタイミングで「POSE」を解除するというテクニックもあった。
NWOBHM、へヴィメタルという言葉は、1979年の夏にイギリスのライブハウスBand Wagonのライブイベント「Heavy Metal Nite」に出演したアイアン・メイデンら無名のバンドを、『SOUND』誌の記者が紹介したことによるとされる。1980年頃がLPとCDの分岐点だから、大音量の激しいロックでも、おおまかにLP時代のバンドはハードロック、CD時代以降はへヴィメタルという区別もできそうだ。
もっともぼくが買った聖飢魔Ⅱの『The End of The Century』はLPだったし、アイアン・メイデンと同じ年にレコードデビューしたデフ・レパードは、「自分たちはハードロックバンドだ」と言っているので、境目は限りなくアナログである。
有名バンドが演奏している動画は、NHKの『ヤング・ミュージック・ショー』(1971年~不定期放送)でしか見られなかった。ビデオデッキは70年代後半には発売されていた(ベータ1975年~VHS1976年~)が、一般家庭に普及したのは1980年代になってからだと思う。バンドスコアは有名バンドのものしかなく、ギターのパートはTAB譜ではなかったので、何弦の何フレットを押さえるかわからなかった。
だから、1970年代のロック小僧は、ラジカセの機能をフルに使ってお気に入りの楽曲を録音し、テープが切れるほど聴き込んで耳コピした。
それにしても、ラジカセの音質は悪かった。
小口径のスピーカーはペラッペラの音だったし、テレビからマイクで録った場合はもちろん、ステレオからのライン録音でも、そもそもレコードプレイヤーのワウ・フラッターやピックアップの音飛びノイズがあった。それを幅の狭いカセットテープで録音するので、音域が狭くノイズがひどかった。
友達のカセットから「ダビング」すると、音質はどんどん劣化した。
それを改善し、音質を飛躍的に高めたのが、ドルビーNR(ノイズリダクション)システムである。
音響心理学でいう人間の耳のマスキング効果を利用して、雑音の多い周波数帯はレベルを上げ、大きな音はレベルを下げて圧縮記録(エンコード)し、再生時に戻す(デコード)ことでダイナミックレンジを拡大し、S/N比を改善する。
この音響心理学を用いた圧縮記録・再生技術こそ、のちのmp3の基礎技術となった。
もともとプロユースの音響技術として出発したドルビーだが、ラジカセに搭載された「ドルビーB」という仕様で大成功した。カセットテープというチープな記録媒体で、いかに高音質を実現するか。その創意工夫が画期的な技術を生んだのだ。ラジカセがなければmp3は生まれなかったかもしれない。
磁性体として金属を練り込んだフェリクロームやメタル(へヴィメタ専用ではない)テープが開発されて音域が広くなり、ステレオ化され、ドルビーNRシステムが標準装備され、ラジカセは進化していった。
80年代半ばになるとCDが出回り始め、CDプレイヤー付のCDラジカセが登場した。
もちろん、画期的な新製品が出ても、普通の若者は、一度買った自分のラジカセを愛用し続けるしかなかった。
友達から借りた「プツッ、プツッ」というノイズ込みのLPの音や、ラジオで急にリクエストがかかったために「POSE」で「REC」と「PLAY」をキープしておくテクニックが使えず、録音タイミングが遅れてイントロが飛んじゃった曲や、お母さんに怒られつつ、テレビから録った生活音だらけの曲でも、とにかく好きになって録音したアーティストの、ラジカセから流れてくる楽曲を、ぼくらは“天上の音楽”のように夢中になって聴いていた。
その行為には、著作権侵害などという概念はなかった。文字通り、自分が好きなアーティストの楽曲をいつでも、何度でも聴きたいためだけに録音していたのであって、それが“犯罪”だとは夢にも思わなかった。
かつてのぼくらと、『誰が音楽をタダにした?』に描かれたように1997年~2007年頃の若者が、インターネットからmp3ファイルをダウンロードしてiPodで聴くのと、どこが違うのだろう?
若者はいつの時代もお金がない。若者は音楽が大好きだ。無料で、好きな音楽をいつでも、何度でも聞けるガジェットがあれば、飛びつくに決まっているのだ。
(つづく)