音楽をタダにした男たち(8) | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

THE ONE NEVER FORGET MIKIO FUJIOKA

★今日のベビメタ

本日、3月25日は、2012年、さくら学院2011年度の卒業式が行われ、武藤彩未、三吉彩花、松井愛莉が卒業し、また2016年には、7月22日〜24日に苗場スキー場で開催される「FUJI ROCK FESTIVAL '16」への出演決定がアナウンスされた日DEATH。

 

『誰が音楽をタダにした?』(スティーヴン・ウィット著、ハヤカワ文庫NF518)は、LPやCDに代わって、インターネット配信が主流となった現在の音楽産業がどのように形成されたかを、歴史的事実としてぼくらに教えてくれる。ドイツ人技術者、ユダヤ系音楽プロデューサー、黒人労働者という生身の三人の男たちによって世界は変わった。二人は大金持ちになったが、一人はいまだに勤勉な労働者に留まっている。

音楽はかつて楽譜として販売され、やがてレコードやCDというパッケージ商品になったが、1995年から2007年までネット上でタダで流通し、現在また月額10ドルの定額配信サービスという形で有料になった。

日本でCDパッケージの売り上げが70%もの比率を未だに保っているのは、デル・グローバーのような存在がおらず、音楽がタダだった期間がなかったことが大いに関係していると思う。

この本では、RNSのリーク源に日本人もいたことが記述されている。だが、それは、時差の関係で欧米よりリリースが半日早いという利点からリークの役割を担っただけで、デル・グローバーや、その他のRNSのメンバーのように、リリース前にCD製造工場やラジオ局の内部から音源を盗み出したわけではなかった。そもそもリークされ、世界中に拡散した音源は、J-POPではなく、洋楽だった。

1997年から2007年といえば、日本ではモーニング娘。やAKB48、アイドリング!!!といった「アイドル」が次々にデビューしていった時期だ。だが、日本では、「アイドル」の音源を無料でダウンロードし共有するという行為は、全く流行らなかった。

「アイドル」のファンは、AKB=秋葉原というネーミングに象徴されるように、コンピュータを自在に使えるマニアックなオタクたちだ。だから、やろうと思えばいくらでも音源をmp3化してシェアできたはずだ。だが、2つの理由から、「アイドル」ファンたちはフリー音源ではなく、パッケージCDを購入した。

ひとつは、CDを買うことで、大好きな「アイドル」に利益を還元したいという思い。タダで聴いちゃったら、大好きなメンバーにお金が行かず、困らせてしまう。お金と時間を捧げるのがファンの証なのだという信条。「おねだり大作戦」ですね。

もうひとつは、CDパッケージに梱包された「握手券」や「投票券」の存在。ぼくらは、楽曲が好きなのではなく、「あの子」に会いたい、触れたい、応援したいのだという心情。

音源そのものに価値を感じた欧米のネットユーザー、音楽愛好家とは全く違って、世界第2位の音楽市場を持つ日本の「アイドル」ファンたちは、音源よりもCDという物神=付加価値にこそ、お金を払ったのである。

それは、遅れていたのか、進んでいたのか。

2012年、アメリカではCDの売り上げが10年前の3分の1程度になり、EMIグループ(EMI、キャピトル、ヴァージン)がユニバーサルに統合された。

この年、iTune MusicやAmazon PrimeやSpotifyなどの有料音楽配信サービスや、YouTubeのVEVOチャンネルが軌道に乗り、アメリカでの音楽売上に占める配信制・広告制を含むデジタルデータの割合はすでに58%に達していた。

定額制サービスでは、アーティストには1曲99セントの数%分しか収入が入らない。音楽配信だけで収入を得ようと思ったら億単位のダウンロードないしストリーミング回数を確保しなければならない。アーティストにとってMVは自身の広告に他ならないので、レーベルが広告代理店に設定した視聴件数による広告収入は入らない。

音楽配信の定額サービスの定着との因果関係はわからないが、リスナーは、CDではなくアーティストのライブにお金を使うようになった。そしてアーティストはアルバムを出したあと、それをテーマにしたライブツアーと関連グッズで数年間稼ぐのが普通になった。

AKB48は、「会いに行けること」=握手券、「推しメンを応援できること」=投票券という付加価値でCDを売っている。

2012年のBABYMETALは「ヘドバンギャー!!!」のヘドバ行脚~キツネ祭り@目黒鹿鳴館や、2013年1月のデビューに向けたLegend“I,D,Z”シリーズの「アイドルとは思えないメタルライブ」を売りにしていた。

オタクが「アイドル」グループに「会いに行く」ことと、メイトがBABYMETALのライブに熱狂することと、欧米の音楽ファンが週末にアーティストのライブを楽しむことと、どこがどう違うのか。

LPやCDのリリースを心待ちにして、レコードショップに予約し、入手したあとは家に帰ってプラスチックフィルムの包装を破るのももどかしく、プレイヤーにかけ、ジャケットや歌詞カードを楽しみ、「擦り切れるほど」繰り返し聴くことと、定額サイトで数千万曲の中からプレイリストでピックアップされた楽曲を聴き、無料でYouTubeのMVを見て、気に入ったアーティストの単独ライブやフェスに行ってみることと、どちらがいいのか。

ぼくにはよくわからない。

ただ一つ言えることは、もうネットのない世界には戻れないということだ。

一人のアーティストあるいは一つのバンドが、全世界数千万枚のアルバムを売ることは、もうあり得ない。

かつて、アーティストはLPもしくはCDを売るために、ワールドツアーを行った。フェスやライブは、いわば「顔見世」興行だった。

しかし現在は、配信やMVで数億回の視聴件数を得ることが「顔見世」となり、アーティストはライブツアーで、1年間に数十万人のオーディエンスを動員することで収益を得る。

例えば「ギミチョコ!!」は2018年3月22日現在で、8518万7087回の視聴件数となっているが、BABYMETALはこれを名刺代わりに海外へ進出し、話題の新人見たさの観客をライブやフェスに呼び込み、ファンを獲得することに成功した。それから3年。2017年だけでも、BABYMETALは前座やフェスも含めて約62万人の観客の前でパフォーマンスした。

AKBや坂グループは、握手会やテレビ出演、ライブ動員の比重も大きいが、最終的には国内のCD売り上げに結び付けることを目的としている。つまり欧米では一昔前のビジネスモデルを日本的に深化させたものといえる。

一方、BABYMETALの場合、接触イベントは行わないが、ファンを囲い込む仕掛けはちゃんと持っている。2013年12月のLegend“1997”の会場で、初のアーティストブック『BABYMETAL APOCALYPSE』を発売し、APOCALYPSE WEBをオープンして、ファン登録することができるようにした。これが現在のTHE ONEの前身であり、中元すず香がSU-METAL、水野由結がYUIMETAL、菊地最愛がMOAMETALとなったように、BABYMETALファンの山田太郎さんは、重複がいなければTARO-METALと「公式に」名乗ることができる。洗礼名みたいなものである。

さくら学院では、ファンは「父兄」だったが、BABYMETALでは、世界でただひとつのメタルネームを登録してTHE ONEの一員となる。そして、豪華版のCDやBDやLPを購入し、高価で入手困難な「限定」ライブチケットを購入して足を運ぶ。海外でのBABYMETALの活躍に心震わせる。

THE ONEという「親目線で応援する」ファンベースを形成して、付加価値の高いパッケージ、チケット、グッズ販売と並行して、世界の主流となっている音楽配信や無料MVで「顔見世」を行いつつ、最終的にはライブ、フェス、ワールドツアーの動員に結び付けるというスタイルは、欧米流を日本的にアレンジしたものといえる。

しかも、アメリカでのレーベルはダグ・モリスの経営するSME系のRALであるが、日本ではトイズファクトリー、ヨーロッパではe・a・r MUSICという独立系レーベルから作品をリリースする。それはおそらく、世界の潮流に従いながら、日本という独自性を守るためだろう。BABYMETALは、日本と世界の音楽業界の歴史を抱え込みながら、未来へ、世界へ開かれたアーティストであろうとしているようにみえる。

その未来の世界で、音楽産業はどうなっているのだろう。

『誰が音楽をタダにした?』には、著作権を一定程度制限し、ユーザーによるコピーを合法化するヨーロッパの海賊党という政治運動に触れた章もある。

欧米だけでなく、日本のアーティストやアニメ、映画のソフトを違法コピーしたディスクは、東南アジア諸国の市場やショッピングモールで堂々と売られている。

1年に数千万ドルを稼ぐプロデューサーやソフト開発者や通信事業者や一発当てて成り上がるアーティストがいる一方、食うや食わずの貧困の中でも、なけなしのお金で海賊版を買う膨大な数の民衆が存在する。

ぼくは左翼でも右翼でもないが、やっぱり極端な不平等には疑問を感じる。

音楽・映画・ゲームの供給者側、つまりプロデューサーや通信事業者やアーティストの生活レベルを少し下げて、全世界の人々が、デバイスとソフトをもっと低額で享受できるようなしくみにできないか。もちろん、大金持ちになることがアーティストや起業家の動機のひとつなのだし、音楽そのものを許さない宗教や、民衆に自由な通信を許さない独裁国家さえ現に存在するから、そんなことは夢のまた夢だが。

この本には、音楽ジャーナリスト宇野維正氏による秀逸な解説もついている。是非、一読されたい。

ネット配信が主流になることによって、音楽産業とアーティストとリスナーの関係は、大きく変わった。誰が得をしているのかよくわからないし、ぼくらはA.I.、ビッグデータ、ディープラーニングといった言葉とともに、「大きな陰謀」の中にいるのかもしれない。

そもそもmp3に限らず、音楽圧縮ファイルは、人間の耳の特性=音響心理学に合わせたデジタルデータに過ぎず、他の動物や異星人には、シュルシュル…という耳障りな音の連なりにしか聴こえないかもしれないのだ。

それは、網膜に映る光を、人間が脳内で3次元に変換して理解する「絵」や「写真」、それをデジタルに変換した画像データにも共通していることだ。ある種のオスの魚が赤い三角形に欲情するように、ぼくらは1と0で表現された「幻影」を見聞きしているだけなのかもしれない。

だが、たとえそうであっても、ぼくらは音楽の中に、アーティストの心の叫びを聞き、興奮したり、励まされたりする。

音楽で腹は膨れないが、イエスは「人はパンのみにて生きるにあらず」と言った。

ぼくらは「イジメ、ダメ、ゼッタイ」に高揚し、「KARATE」で励まされ、「THE ONE」で世界と繋がっていることを実感する。どんなに形態が変わっても、結局、音楽とは人間の営みであり、人間が人間であることの証なのだと思う。

(この項、終わり)