音楽をタダにした男たち(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

THE ONE NEVER FORGET MIKIO FUJIOKA

★今日のベビメタ

本日、3月18日は、2012年、スポニチに、“なでしこメタル特集”として記事が掲載され、2016年には、「KARATE」のフルMVが公開、THE ONE 限定イベント4/20、21の開催がアナウンスされた日DEATH。

 

PayPalの社員だったチャド・ハーリーらが友だちとビデオをシェアするために始めたYouTubeがカリフォルニアでスタートしたのは2005年。

2006年には映画会社と契約して予告編を流すサービスを開始し、年末にGoogleと資本提携。2007年には日本でもユーザーが1000万人を超えた。

日本では、2000年代初頭に都市部でADSL回線が普及していたが、動画配信はまだまだ遅く、「小窓」でしか見られなかった。ニコニコ動画は2006年にサービスを開始。2008年にFTTH(光回線)がADSLの契約者を上回り、普通に動画が見られるようになった。2010年にはNTTの光Wi-Fiサービスも開始され、SU-、YUI、MOAが“光の天使”となって告知した。

携帯電話の高速回線化も進み、2008年には第三世代(3G)が84%以上となり、2009年にはモバイルWiMax、2012年には4Gサービスが始まった。

mp3ファイルプレイヤーであるiPodは2001年にリリースされていたが、ファイルを取り込むにはiTunesを動かすパソコンが必要だった。だが2007年にはオリジナルiPhoneがリリースされ、Android規格も同年に発表された。これにより、PCを経由しないで、直接音楽ファイルや動画をスマートフォンに取り込み、どこでも視聴できるようになった。

モーニング娘。が結成された1997年、AKB48が結成された2005年、アイドリング!!!が結成された2006年の段階では、プロモーションにYouTubeや動画サイトを使うことはできなかった。もちろんインターネットのHPを通じた告知やグッズ販売は行われていたが、「アイドル戦国時代」の主戦力は、やはりテレビとCD売上のためのフィジカルな「接触」イベントだった。

ももクロが結成された2008年には動画が利用できる環境が整ってきていた。そのため、テレビに露出する前から、YouTubeにMVをアップし、ネットの生配信で、川上マネージャーが画面の後ろで指示を出しつつ、メンバー自身がライブの告知や終了後の感想を言いながらケラケラ笑ったり、お菓子を食べたりする楽屋映像を流した。早見あかりの脱退や、紅白歌合戦出演決定の瞬間も配信された。この手作り感とライブ性が、「親目線」で応援するファンベース形成の力となったことは間違いない。

BABYMETALが結成された2010年には、これら、現在ぼくらが享受している音楽・動画視聴のインフラがすべてそろっていた。

世界的市場があるへヴィメタルというジャンルをベースに、クオリティの高い楽曲、ライブパフォーマンスをコア・コンピタンスとして、果敢に海外でのライブ活動を行う。

公式サイトでファンベースとグッズ販売をサポートし、YouTubeに公式MVやワールドツアーのトレイラーをアップする。有料音楽配信サイトであるApple MusicやSpotifi へのリンクも張られている。

YouTubeには、彼女たちの幼少期の映像、さくら学院時代の映像、すなわち成長記録がアップされている。彼女たちの成長そのものがコンテンツとなる。さらにYouTubeには、ライブのファンカムやリアクションビデオが無数にアップされ、ファンたちはSNSやブログで勝手に応援したり、分析したり、告知したりする。それによってファンベースがますます拡大していく。

地方に拠点劇場を作り、大勢のメンバーを確保し、シングルCDを数か月おきにリリースし、その売上につなげるためにオールドメディアであるテレビに出続け、フィジカルな接触でファンを惹きつけ、「総選挙」で選抜メンバーを決めるというファン参加型のAKBモデルは、世界的にも稀有なビジネスモデルである。パッケージCDの売上が70%を超える日本の音楽市場の特殊性は、まさにAKBモデルによって保たれているのではないか。

だが、BABYMETALは、「海外で通用するアーティスト」であることをテコに、前述したように公式サイトをワンストップの告知、グッズ、楽曲配信の「装置」とした。一般販売では売れないパッケージCDや映像作品は固定ファン向けの豪華版とし、ライブのチケットやグッズも通常のアーティストより高い価格設定とした。このやり方は、音楽・動画配信での楽曲リリースとライブへの動員という世界標準のアーティスト・スタイルといえる。

『誰が音楽をタダにした?』(スティーヴン・ウィット著、ハヤカワ文庫NF518)によると、こうした状況ができたのは、情報の一方通行となるマスメディアに反旗を翻し、大衆のなけなしのお金をCDの購買につぎ込ませ、莫大な利益を得る音楽産業を無力化する「シェア」の精神をインターネットに求めた、一人の黒人労働者のおかげである。

彼、デル・グローバーは、アメリカ・ノースカロライナ州キングスマウンテンにあるポリグラムのCD製造工場に週2日務めるアルバイト労働者だった。自宅はシェルビーという小さな町で、このあたりはもう南部といってもよく、黒人の多くは低所得だったが、デルの父親は整備工で、比較的安定した生活をしていた。デルは父親譲りの機械好きで、1989年、15歳の時に28MB、白黒モニター、5.25インチのフロッピーディスクスロットが2つついたIBM-DOSパソコンを買ってもらった。価格は当時2300ドル。これはぼくが1990年に初めて仕事で使ったNECのPC-98シリーズとほぼ同一のスペック・価格である。

高校を卒業すると、デルはコミュニティカレッジに通いながら、レストランで働き始めたが、週末にはポリグラムのCD工場でアルバイトをするようになる。音楽好きで、デジタル技術に惹かれていたデルは真面目に働き、1996年、時給11ドルの常勤に昇格した。

工場では労働者によるCDの盗難が問題になっていた。当時フィリップス社は、CDを家庭用にコピーするCDバーナーを販売していた。CD工場で、リリース前のCDを盗み、CDバーナーでコピーし、5ドルほどの海賊版として売る。だがそれはリスクが高く、見つかれば首になるだけでなく、莫大な罰金を科せられた。

デルは週70時間も働く真面目な労働者だったが、彼女と同棲をはじめたため、お金が必要だった。CDはリスクが多かったので、パソコンとバーナーを使ってビデオゲームや映画をコピーして町で販売したり、ピットブルをブリーディングしたりする副業にいそしんだ。

1996年当時、WEBはまだ始まったばかりだった。文字ベースのHPと掲示板しかなかった。デルもWEBの常連だった。

デルが頻繁に利用したのは、「ウェアーズ」と呼ばれる不正コピーされたソフトなどのファイルを交換=シェアするサイトだった。

ソフトウェアのコピーは著作権違反だったが、インターネットでは、友人同士が保有するファイルを無料で交換し合うのは、ひとつのサブカルチャーであり、それは「ウェアーズ・シーン」と呼ばれた。

その中に、音楽CDファイルを12分の1に圧縮したファイルもあった。ドイツのブランデンブルグのチームがネットにばらまいたエンコーダーを使って作ったmp3ファイルだった。

「シーン」にはいくつかのトップサイトと呼ばれる秘密のサイトがあり、どのサイトが最も早く、かつ最も多くの音楽CDのmp3ファイルをリリースできるか、競い合っていた。

デルは、友人の紹介で、カリフォルニアに住むインド系の「カリ」というハンドルネームを持つ男がリーダーを務めるトップサイト、RNSにスカウトされる。

ポリグラムのキングスマウンテンCD製造工場は、ユニバーサルに買収されていた。そこでは、ジェイZ、エミネム、ドクター・ドレ―、キャッシュ・マネーなど、若い黒人に爆発的な人気を持っていたヒップホップ/ラッパーのCDを生産していた。デルは彼らのCDの包装ラインの主任だった。

カリは、きわめて厳格、慎重なリーダーであり、リリース前のCDを盗み出し、mp3ファイルにしてアップロードすることが犯罪であることを熟知していた。そのため、カリはデルと直接話す以外、他のメンバーに一切コンタクトさせなかった。カリは、レコード会社の新作リリース予定を調べ上げ、デルにアップロードの指示を出した。デルはその指示に従って、CDの製造ラインを流れてくる、のべ2000タイトルもの新作CDをどこのサイトよりも早く「リーク」して、RNSのサイトにアップした。これによってRNSは、「シーン」で最も権威ある、充実したサイトとして世界中のファイルシェアユーザーに認知された。

カリは、アップロードされたファイルをコピーして海賊版CDとして販売することを禁じていた。RNSは新作音楽ファイルだけでなく、旧作CD、映画、ゲームなどのファイルも圧縮してユーザーに提供していた。デルは、自分がカリとRNSにとって、もっとも重要な人物であることを意識しており、RNSから、見返りとして提供される無料の映画、ゲームなどの「リーク」ファイルを海賊版として販売していた。

RNSに「リーク」されたmp3音楽ファイルは、世界中のユーザーによってたちまちコピーされ、CDリリースの数週間前には出回ってしまうという事態が出現した。

中には大っぴらに「ファイル共有」のサービスを掲げるサイトも現れた。1999年に大論争を巻き起こしたNapsterや、2004年にイギリス人学生アラン・エリスによって設置されたビット・トレントというファイル分散技術を用いた「オインク・ピンクパレス」もそうしたサイトだ。

だが、その音源は文字通りRNSであり、2007年9月15日にデル・グローバーが逮捕されるまで、ユニバーサルのCD工場からベルトのバックルに隠して盗み出したものだった。

ネット上に不正コピーされたCD音楽ファイルが出回っていることと、それがCDの売上げを落とす影響に、RIAAはなかなか気づかなかった。1990年代はCDの売上が右肩上がりで伸びていた時代であり、ユニバーサルの黄金時代だった。それを実現したのは、ダグ・モリスというユダヤ系のプロデューサーだった。彼は、「ローカルなヒット曲は存在しない」という哲学の持ち主で、全米各地のCDショップの売り上げをこまめにチェックし、ある地域で売れている曲があれば、必ず全米規模でプロモーションした。こうして、自身は全く興味のないヒップホップ/ラップのアーティストを早い段階で発掘し、契約を結び大物アーティストに育て上げていった。そしてそのアーティストに「後輩」をプロデュースさせ、レーベルを持たせるという方法で、1990年代のトップアーティストを次々に作り上げていった。だが、デル・グローバーがこれら大人気アーティストのCDの製造ラインを担当するようになった1990年代後半、SU-が生まれた1997年からYUI、MOAが生まれた1999年ごろには、楽曲はCDショップに並ぶ前に、mp3ファイルとして、世界中の若者のパソコンに収まっていったのである。

(つづく)