世界的日本人 | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

You are THE ONE, We never forget Mikio Fujioka

★今日のベビメタ

本日2月16日は、2016年、6月5日に行われるオランダのフェス「FORTAROCK 2016」に出演することが発表された日DEATH。

 

冬季オリンピック平昌大会も、ちょうど折り返し点を迎え、結果が出そろってきた。

2月15日までに日本代表は、銀メダル4つ、銅メダル3つを獲得した。

スキーのジャンプやノルディック複合ではラージヒルや日本のお家芸、団体が残っているし、スピードスケート500m、フィギュアスケート、カーリングもこれからが本番。前回ソチでは金1銀4銅3だから、それを上回る可能性が高い。

もちろん、基本的には日本人のメダル獲得数よりも、競技そのものの美しさや戦う選手のパフォーマンスや緊張感を楽しめばいいのだが、平日にはなかなかそんな時間はとれない。

どうしても、夜、メダル獲得シーンばかり見てしまうことになる。

ウインタースポーツは欧米が本場なので、ドイツ、オランダ、北欧各国、アルプスに近いスイス、フランス、イタリアの選手に、アメリカ、カナダの選手が絡むという展開が多い。

そんな中、日本人選手は金メダルこそないが、アジア最多のメダル数を獲得している。

JOCのホームページから、近年のオリンピックでの日本のメダル獲得数(金銀銅の合計)の推移を追ってみた。

●夏季オリンピック

1964年東京29、1968年メキシコシティ25、1972年ミュンヘン29、1976年モントリオール25、1980年モスクワ不参加、1984年ロサンゼルス32、1988年ソウル14、1992年バルセロナ22、1996年アトランタ14、2000年シドニー18、2004年アテネ37、2008年北京25、2012年ロンドン38,2016年リオデジャネイロ41

●冬季オリンピック

1964年インスブルック0、1972年札幌3、1980年レークプラシッド1、1984年サラエボ1、1988          年カルガリー1、1992年アルベールビル7、1994年リレハンメル5、1998年長野10、2002年ソルトレーク2、2006年トリノ1、2010年バンクーバー5、2014年ソチ8、2018年平昌7(2/15現在)

初の自国開催となった1964年の東京オリンピックは金16銀5銅8という素晴らしい成績だったが、同年行われたインスブルック冬季オリンピックは、日本のメダル獲得は0だった。子ども心に「笠谷スゲー」と思った札幌冬季オリンピックは、金1銀1銅1のたった3つだった。

それが、夏季オリンピックは、2012年のロンドンで38、2016年のリオオリンピックで過去最多の41のメダルを獲得し、2020年にはいよいよ自国開催の東京オリンピックを迎える。

冬季オリンピックも、自国開催の長野こそ10個のメダルを獲得したが、ソルトレーク2、トリノでは荒川静香の金1つだけと低迷していたのに、バンクーバーで5つ、ソチで8つのメダルを獲得し、上り調子にきていた。

今回の平昌では、折り返し時点ですでに7つのメダルを獲得しているから、やはりJOCの代表選手強化策は功を奏しているのだろう。

考えてみれば、銅メダルで世界70億人中3番目にその競技が上手いということだから、とんでもないことである。

経済的に恵まれ、幼い頃からスポーツができる子どもが大勢いて、その中から才能と強いメンタルを持って勝ち上がった者だけが代表選手になれる。とりわけウインタースポーツは常夏の国ではできない。貧しい国のお金持ちの子どもが、欧米へ留学したりしてその国の代表選手になることはあるだろう。だが競技人口が多くなければ、ピラミッドの頂点は高くならないのだ。

そうして見いだされた選手でも、最先端の技術で作られた用具を用い、専門的な運動理論をもとに指導するコーチがいなければ、現代の世界最高峰の舞台で戦うことは難しいだろう。

すべての条件がそろって初めて、冬季オリンピックでメダル争いに加われるのだ。

そう考えると、日本はやはり「ちっぽけな東洋の島国」ではなく、欧米先進国と伍して戦える大国なのである。

世界で活躍する「アイドルとメタルの融合」BABYMETALがこの日本に誕生したのも、こうしたこととは無縁ではないとぼくは思う。

現在、日本には、膨大な数のアイドル志望の女の子たちがいる。それは「アイドル」という職業が、女の子たちに目指される憧れの存在だからである。

どこにでもいそうな普通の女の子が、スカウトされたり、オーディションで選ばれたりして「アイドル」としてデビューし、テレビに出て華やかに活躍するというシンデレラ物語のロールモデルは、2000年代の初めに、モーニング娘。や、アイドリング!!!や、AKB48が登場したことで、より現実感を増した。

中元すず香がキッズモデルからアクターズスクール広島の「第4回アルパークスカラシップオーディション」を受けたのも、菊地最愛が『ちゃおガール』コンテストに応募したのも、水野由結が可憐Girl’sに憧れ、オリコン『キッズスタイル』の読者モデルになったのも、そうした女の子のひとりだったからだ。

三人は、アイドル志願の女の子たちのピラミッドの頂点としてさくら学院に集まったのだ。もちろん、それがハロプロやAKBではなく、アミューズのさくら学院だったのは、キツネ様のお導きによるものだが。

そして、アミューズには、KOBAMETALとMIKIKO師がいた。

「アイドルとメタルの融合」というコンセプトを思いついたKOBAMETALというプロデューサーもまた、先進音楽大国日本という環境がなければ誕生していなかったはずだ。

彼の生年は公開されていないが、小学校6年生のときに、テレビで聖飢魔Ⅱを見てメタルに目覚めたという逸話から、1970年頃と推測されている。

1980年代初頭、日本の家庭にはカラーテレビがあり、ステレオレコードプレーヤーもあっただろう。歌番組も多く、カワイコちゃん歌手、ロックっぽい歌謡曲の歌手、ニューミュージックの境界線は限りなく狭かった。なぜならレコーディングでは、ほとんど同じスタジオミュージシャンが演奏していたのだから。

中学校では吹奏楽部に入っていたというKOBAMETAL。そこで楽器演奏-音楽そのものの楽しさにもきっと目覚めたのだと思うし、マーチングバンド的な吹奏楽より、「ロックやりてー」という衝動に駆られたりもしたのだと思う。この原体験が「META!メタ太郎」を生んだというのはうがちすぎか。

ロックの世界では、ハードロックからニューウェーヴ、LAメタル、スラッシュメタルへの移行期だった。聖飢魔Ⅱで「メタル」に目覚めたKOBAMETALは、お小遣いを貯めて洋楽のレコードを買い漁ったのだろう。当時はレコードショップに、すべてのリソースがあったからね。

こうしたすべての条件は、KOBAMETALが1970~80年代の日本で、中流家庭に生まれ育ったからこそ可能だったことである。

もし、彼が貧しい国に生まれたなら、たまたま街角のテレビでメタルバンドを見て衝撃を受けたとしても、様々なタイプのアーティストや楽曲を毎日聴くこともできなかっただろうし、学校で器楽演奏をする機会などもなかっただろう。レコードを買い漁り「メタル博士」になることもできなかったはずなのだ。まして大学を卒業して職業音楽プロデューサーになることもなかっただろう。

テレビ朝日「タモリ倶楽部」の2016年4月22日放送分「アフリカ大陸で発見!こんなところにデスメタル!?」は、辺境メタルマニア濱崎誉史朗氏を案内役に、マーティ・フリードマン、高嶋政宏、ハライチをゲストに迎え、モザンビーク、マダガスカル、モーリシャス、ケニア、トーゴなどのアフリカ各国のデスメタル?バンドを紹介していく番組だった。番組構成の種本は「デスメタルアフリカ」(著カク・ハマザキ、出版社パブリブ 2015年)らしい。

「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」には、メタルバンドが頻出する。メタリカ、ジューダス・プリースト、ラムシュタイン、スリップノット、リンキンパークは常連であり、タモリ自身もデスメタル好きらしい。

それはともかく「こんなところにデスメタル」を見ると、メタルという音楽が好きになっても、楽器はもちろん、電気も、CDを買って音楽を聴くという概念すらもない環境でバンドをやることの大変さが伝わってくる。それでもやる奴はやるんだ、ということも。

だが、これらのバンドがアフリカで頑張っていたのと同じ時期に、日本にはBABYMETALが誕生し、番組が放映された同じ月にはウェンブリーアリーナ公演を経て、「Metal Resistance」がビルボード200の39位にランクインした。

これはもう、日本に生まれたことを感謝するしかない。