世界征服とは何か(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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★今日のベビメタ

本日、2月12日は、2011年、さくら学院Happy Valentineにて、重音部が初めてBABYMETALと名乗った日DEATH。

 

1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発。サラエヴォ事件を契機としたオーストリア=ハンガリー帝国・ドイツ帝国・オスマントルコ帝国の中央同盟国VSロシア・イギリス・フランスの三国協商連合国との対立構造だった。

オーストリアのウイーンで生まれ育ち、ドイツ南部ミュンヘンに移住していた23歳のヒトラーは志願兵としてドイツ軍に入るが、1918年、前線で負傷。豊富な軍資金を持つ連合国が次第に優勢となり、ドイツは降伏する。同年、ドイツ国内では革命が起こり、君主制を廃し、社会民主党を中心としたワイマール共和国が成立する。

1919年、ヴェルサイユ条約が締結されて、ドイツは莫大な賠償金を負うことになった。退役して無職となったヒトラーは、この年、ドイツ労働者党に入党する。

翌1920年、ドイツ労働者党は国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、NSDAP、ナチス)と改名、1921年にはヒトラーが党首に就任する。

ヒトラーが党首となって2年目の1923年、フランス軍のルール地方進駐を機に、反フランスの機運が高まり、ナチスの本拠地だったバイエルン州では対仏従属の中央政府からの独立、打倒をめぐって対立が生まれ、ナチスは、ミュンヘンのビアホールを舞台に、州政府に対するクーデターを起こす。いわゆる「ミュンヘン一揆」である。しかし、これは失敗し、ヒトラーは投獄されてしまう。獄中で書かれたのがヒトラー自ら政治思想を述べた「我が闘争」である。

その9年後の1932年、ナチスは総選挙で230議席を獲得して第一党となり、1933年には党首ヒトラーは首相に就任、全権委任法が可決され、独裁体制が確立する。

なぜ、負傷兵上がりで無謀な一揆を起こして逮捕された「犯罪者」ヒトラーとナチスが、ドイツ国民に支持されてしまったのか。

この「ヒトラー現象」の第一の謎は、『ヒトラーとは何か』(セバスチャン・ハフナー)によれば以下のようなものである。

第一次世界大戦でドイツは敗戦国となったが、戦後ドイツ人の中には、まだまだ戦えたはずだという意識があった。戦時中、ドイツ帝国陸軍最高司令官だったルーデンドルフ将軍は、フランスの頑強な抵抗によって戦線が膠着すると継戦の見通しの無さから精神耗弱状態に陥り、停戦・降伏の道を選び辞任したが、社会民主党によるドイツ革命によってワイマール共和国が成立すると、ヴェルサイユ条約の遵守に汲々とする政権を非難し、再びドイツがヨーロッパに覇を唱える「大ドイツ主義」を主張した。

ヒトラーは、ドイツ国民の一定層と同様に、このルーデンドルフ将軍を尊敬し、ミュンヘン一揆の頃までは共闘していた。

第一次大戦末期、すなわちドイツ帝政末期の1918年、社会民主党、自由主義左派、カトリック中央党の三党が議会の多数派を形成した。これをワイマール連合というが、同年11月の帝政の廃止=ドイツ革命で主力となった独立社会民主党、女性革命家ローザ・ルクセンブルグのスパルタクス団などの急進左派は、ワイマール共和国成立後、弾圧されてしまう。

ルーデンドルフ将軍など右翼と、急進左翼の挟み撃ちによって、ワイマール政権は一年後の選挙では過半数を下回ってしまい、不安定な政権運営を余儀なくされた。

ヴェルサイユ条約で課せられた多額の賠償金の支払いやインフレによって、生活苦にあえぐドイツ国民の間には、ソ連やローザ・ルクセンブルグのような共産主義、社会主義から、ルーデンドルフの大ドイツ主義、ナチスの反ユダヤ思想、国民社会主義まで、さまざまな政治思想に関する議論が盛んだったという。

それでも、1920年代のドイツは、少なくとも戦争に巻き込まれることなく、徐々に経済復興を成し遂げていった。1923年のナチスによる「ミュンヘン一揆」が、大衆の支持を集めることなく弾圧されたのにはこうした背景があった。

1929年の世界大恐慌が全てを一変させた。

イギリス、フランス、アメリカなど、海外に植民地を持つ列強は、自国の海外ネットワークで資源から市場までを完結させるブロック経済によって国益を守ろうとしたが、海外の植民地を失ったドイツや、新興国の日本などは、存亡の危機に立たされた。

1917年のロシア革命で成立したソ連型の社会主義=計画経済は有力な選択肢のひとつだった。しかし、ロシアが第一次世界大戦で敵国だったことを考えると、当時のドイツ国民にとって、ヒトラー=ナチスが唱える思想はもっと魅力的に響いた。

セバスチャン・ハフナーによれば、ヒトラーの政治信条は、1918年~19年に政治家を志した頃から1945年の自殺に至るまで、終始一貫していたという。

・ドイツを敗北に導いた「革命」など、二度と起こしてはならない。ヴェルサイユ体制を打破し、「革命」であきらめて敗れた戦争を再び起こし、ドイツ民族の生存圏を拡げること。

・左翼思想に惑わされた労働者にはナショナリズムを吹き込み、かつ生活を保障するために社会主義を提供すること。すなわち国民社会主義を標榜すること。

・労働者を惑わせ、国内から「革命」を起こす左翼勢力を一掃し、政党を統一すること。特にマルクス主義者にはユダヤ人が多いから、根絶してしまわねばならない。

このような政治思想は、大ドイツ主義とナショナリズムと社会主義と反ユダヤ思想という相反する考えがごちゃまぜになった、奇怪なものであった。

ハフナーによれば、反ユダヤ思想は、必ずしも当時のドイツで一般的ではなかった。

むしろドイツのユダヤ人には愛国者が多く、社会の様々な分野で重要な役割を果たし、1920年代のドイツの科学技術や芸術・文化の先進性の原動力となり、社会の発展に寄与していた。

しかし、ヒトラーが生まれ育ったオーストリアや東ヨーロッパでは、古いユダヤ人蔑視の風潮が残っていた。ヒトラーは、ユダヤ人とは宗教共同体ではなく、「革命」を主導し、ドイツのみならず白人をむしばみ、弱体化させる敵対「人種」だと思い込んでいた。

オーストリア=ハンガリー帝国のドイツ人官吏の家庭に生まれたヒトラーにとって、ドイツとは「国」ではなく、「民族」だった。だから、ヒトラーにとっては、中央ヨーロッパに位置するドイツという「国」が、平和で豊かに末永く繁栄することが目的ではなく、ドイツ「民族」が他の民族を圧倒して生き残ることこそが目的だったのである。

しかし、世界恐慌後、列強のブロック経済に圧迫される当時のドイツ人は、「国民社会主義」を標榜し、ヴェルサイユ体制の打破を呼び掛けるヒトラーの勇壮なアジテーションは、きわめて魅力的に思えた。

ハフナーも書いているが、ヒトラーの演説は、だみ声で決して雄弁ではないが、大衆を催眠術にかけ、心酔させる特殊な力があったという。

また、ナチスが他党やユダヤ人に攻撃をかける「突撃隊」(SA)の統制のとれた強さは、共産党の実力部隊である「赤色戦線戦士同盟」を圧倒していたという。

そして何よりも、君主制の崩壊以来、ワイマール共和国の政治家たちが、行き詰まると政権を投げ出すことを繰り返していたのに対して、ヒトラーは強烈な自負心で、「俺に任せろ」というオーラを放っていたという。

ボリシェビキ一党独裁のソ連は、なんといってもかつての仇敵ロシアであり、その支配に従うことはできない。反ユダヤ人思想やSAによるテロなど、危険な面もあるが、とにかくあいつに政権を任せてみよう…。ドイツ国民は、ヒトラーの本質が、国を安定的に運営する「政治家」ではなく、他民族を根絶しようとする「トンデモ思想家」だということに気づかなかった。

それも無理はない。ナポレオンも、ビスマルクも、レーニンも「国」の運営をするために戦った政治家だった。自分の考えを現実化するために、「トンデモ思想家」が政権を取った例など、少なくとも近代史にはかつてなかったからである。

釈放されたヒトラーは、投獄で不在だった期間にナチス党内で勢力を伸ばした左派のシュトラッサーから権力を奪い返し、選挙で議席を獲得する方針に転換する。

ナチスは1928年の国政選挙で12議席、世界大恐慌後の1930年には107議席を獲得して第二党となり、ヒトラーは大統領選挙ではヒンデンブルグに敗れたものの30%の得票を得る。そして1932年の選挙では584議席中230議席を得て第一党となるのである。

首相就任演説で、ヒトラーは「この地球は、人種戦争の勝利者に贈られる持ち回りの優勝カップに過ぎない」と述べ、ドイツ民族=アーリア人種による「世界征服」を宣言した。

少なくともBABYMETALが2013年1月、メジャーデビューの際に掲げた「世界征服」が、パロディであったことは、これではっきりわかるよね。

なぜならBABYMETALの「世界征服」の目的は、他の音楽ジャンルやアーティストを絶滅させることではないのだから。

(つづく)