テクニカルギタリストの系譜(5) | 私、BABYMETALの味方です。

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★今日のベビメタ

本日1月26日は、2016年、USツアーの追加公演(東海岸(5/05ボストン)、西海岸(7/12シアトル,7/14サンフランシスコ,7/15ロスアンジェルス)の日程が発表された日DEATH。

 

ジョー・サトリアーニとスティーヴ・ヴァイの“師弟”が、ロックギター史に刻んだもう一つのレガシーは、日本のアイバニーズ(JSシリーズおよびJEMシリーズ)をメイン楽器としたことである。これによって、OEMも含めて、プロユースに相応しい日本製の楽器のクオリティの高さが世界的に認知されることになった。メタリカ、スレイヤー、そしてわがBABYMETALの神バンドがESPを使い、CHONがアイバニーズを使っているのも、頂点を極めたこのテクニカルギタリスト二人の影響が大きいと思う。

ギターを始めた少年時代、ジョー・サトリアーニはグヤトーン、スティーヴ・ヴァイはテスコのギターからスタートした。

日本のエレキギターの歴史は意外に古い。

グヤトーン(グヤ電気楽器製作所→株式会社グヤ→東京サウンド株式会社)の創業者松木三男は、第二次世界大戦前の1934年にエレクトリック・ギターの開発に成功していた。

スティール弦の振動を電気信号に変換し、アンプで音を増幅するピックアップは、アメリカのジョージ・ビーチャムによって1931年に発明された。1932年にRo-Pat-Inコーポレーション(のちのリッケンバッカー)によって、ラップスチール型の「フライングパン」と、他社製アコースティックギターのボディを使った「エレクトリックスパニッシュギター」が売り出され、これが世界最初のエレキギターとされる。

その2年後の1934年に日本の松木三男がエレクトリック・ギターを開発したというのは、考えてみれば凄いことだ。

戦後すぐに起こったハワイアンブームに応えて、ハワイアン用のエレクトリック・スチールギターの製造を始めたのは、フェンダー社と同じく1946年に創立されたテスコ(アヲイ音波研究所→日本音波工業→テスコ)である。

テスコは、1952年にエレキギターの製造を開始する。この年は、ギブソン社が初のソリッドボディのレスポールを売り出した年であり、その前年1951年にはフェンダー社がブロードキャスターをテレキャスターに改称した。エレキギター/ソリッドギター黎明期に、日本のギターメーカーも参入していたのだ。

1956年には前述の松木三男によってグヤ電気楽器製作所が創立され、グヤトーンブランドのエレクトリック・スチールギターやエレキギター、アンプ、エフェクターの製造を手掛けるようになる。

この両社が60年代のエレキブームとGSブームのけん引役となる。

1965年1月、アメリカのサーフロック・インストゥルメンタル・バンド、ベンチャーズがアストロノーツとともに、二度目となる来日を果たす。ベンチャーズの「♪テケテケテケテケ…」というスプリングリバーブを利かせたサーフロック・サウンドは大流行し、日本中にエレキブームが到来する。

「勝ち抜きエレキ合戦」(フジテレビ、1965年6月~1966年9月、グヤトーンが模範演奏のシャープ5に機材提供)や、「エレキ・トーナメント・ショーGO!GO!GO!」(東京12チャンネル、1965年8月~?、テスコ1社提供)の影響もあって、両社のエレキギターが飛ぶように売れ、海外へも販路を広げた。日本製エレキギターは、ギブソンやフェンダーやリッケンバッカーやモズライトの本物よりはるかに安い価格であり、それが少年だったジョー・サトリアーニとスティーヴ・ヴァイの手に渡ったのである。

最盛期には、家具店や下駄屋さんまでエレキギターに参入し、オリジナリティあふれる奇抜なデザインのギターが大量に作られた。現在、これらのヘンテコなギターは、ジャパニーズ・ビザール・ギターと呼ばれコレクターズアイテムとなっている。

この事態に対して、1965年10月、栃木県足利市教育委員会が、市内の中学・高校に「エレキギターは青少年を不良化させ非行に走らせる楽器であるから、エレキを買った者、バンドを組んだ者、エレキ大会に出た者は停学処分とする。」と通知し、これが全国に広がった。いわゆる「エレキ禁止令」である。

これには、当時トップギタリストだった寺内タケシが「エレキは健全な若者の音楽」と訴えて高校でのコンサートを行ったり、BABYMETAL擁護の第一人者であり、当時は人気絶頂の青春スター加山雄三の「エレキの若大将」が封切られたりして、エレキ=不良のレッテルをなくそうとする動きもあったが、今に至るまで、エレキ=ロック=不良のイメージは残っていると思う。不良っぽいからカッコいいんじゃん。

ちなみに、中国政府は今年1月19日、ヒップホップ文化は低俗だとして、ラップ歌手や入れ墨のある芸能人をテレビやラジオの番組に出演させない方針を示した。体制批判につながることを恐れた「ラップ禁止令」である。習近平はそれほど民衆が怖いのかwww。

元テスコ社員の回顧録ブログによると、1965年末の段階では「エレキ禁止令」の影響はさほどなく、社長は翌年ビートルズが来日することで、もっとエレキが売れると考えており、埼玉県桶川市に新工場を建設する計画に着手。1966年6月にザ・ビートルズが来日した際、前座バンド用の機材を提供したのはテスコだった。

ザ・ビートルズは、インストゥルメンタルではなく、Kawaiiおかっぱ頭で歌いながら演奏するロックバンドだった。

これを機に1967年からグループサウンズ(GS)ブームが起こる。

ビートルズ来日前から活動していた寺内タケシとブルージーンズ、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、寺尾聰を擁するザ・サベージに始まり、加瀬邦彦をリーダーとするワイルド・ワンズ、沢田研二・岸部一徳・岸部シローを擁するザ・タイガース、堺正章・井上順・かまやつひろしを擁するザ・スパイダース、萩原健一を擁するザ・テンプターズ、野口ヒデトを擁するオックス…。

彼らが70年代につながる日本のロックバンドと男性アイドルグループの原型だろう。

だが、若い男たちがベンチャーズを真似て、猫も杓子もエレキギターで「♪テケテケ…」というエレキブームは完全に去り、ビートルズ風の長髪とファッションが流行り、エレキギターはさっぱり売れなくなった。そのため、競い合って参入したメーカーの倒産が相次いだ。

桶川に新工場を立てていたテスコは経営難に陥り、河合楽器の傘下に入る。グヤトーンは電子楽器、エフェクターのメーカーとして2013年まで存続した。

人気グループからの主要メンバーのやらせ脱退劇や、殺到したファンの転倒事故、失神パフォーマンスへの風当たりの強さなどから、1969年にはGSブームが終わってしまう。

代わって人気になったのが、ニュー・ロックことブリティッシュ・ハードロックとフォークだった。

ギターの世界では、オリジナルデザインのグヤトーンやテスコに代わって、70年代に台頭したのが、楽器としての精度を高め、ハードロックに対応するギブソンやフェンダーの精密なコピーモデルを販売するメーカーだった。

グレコ(神田商会)、フェルナンデス(斎藤楽器→フェルナンデス)、アリアプロⅡ(荒井貿易)などがその代表で、欧米のロックバンドが使っているギブソンのレスポール、SG、エクスプローラー、フライングV、フェンダーのストラトキャスター、テレキャスター、リッケンバッカーのベースなどの人気モデルを、年式やバリエーションまで精密にコピー。ヘッドストックに描かれたロゴの字体も、「Gibson」や「Fender」に酷似させていた。

価格は、高校生がひと夏アルバイトすれば買える範囲で、当時バンドを組んでいたロック少年のほとんどが、これらのコピーモデルのお世話になったのではないだろうか。

後からわかったのだが、グレコ、フェルナンデス、アリアプロⅡとも自社工場を持たず、グレコは富士弦楽器(現フジゲン、長野県松本市)、寺田楽器(愛知県海部郡蟹江町!)、ダイナ楽器(長野県茅野市)、フェルナンデスは河合楽器製作所(静岡県浜松市)や東海楽器製造(静岡県浜松市)といった東海・中部地方の会社がOEM生産していた。

日本の楽器といえば、ヤマハ(日本楽器→ヤマハ、静岡県浜松市)が世界的なブランドであり、ピアノ、管楽器からピアニカまで、あらゆる楽器を製造していた。ギターではアコースティックのイメージが強いが、サンタナや高中正義が使ったSGなどエレキギターも製造していた。

だが、世界的ブランドだけに、ヤマハのギターはオリジナルデザインであり、欧米のロックバンド御用達のギブソンやフェンダーに憧れていたロック少年にはコピーモデルの方が人気だったと思う。

日本製のコピーモデルは品質が高く、価格が安いため、本家のギブソン、フェンダーにとっても脅威となった。そのため、70年代後半から80年代前半にかけて、ギブソン社、フェンダー社が日本の楽器製造会社に対して訴訟を起こすといった事態を招いた。

1946年にレオ・フェンダーによって設立されたフェンダー社は、1949年に世界初の量産型ソリッドエレキギターである1ピックアップのスクワイヤーを発表、1950年に2ピックアップのブロードキャスターを開発し、これが1951年に今でも主力モデルであるテレキャスターとなる。同年発売された世界初の量産ソリッドエレキベースであるプレシジョンベースや1954年のストラトキャスターなど音楽史上に残るエレキギターやベース、ツインリバーブなどアンプの名器を生み出してきたが、1965年以降、全米三大ネットワークのキー局として音楽産業を一手に収めようとしていたCBSの傘下にあった。

1970年代のフェンダーは、シンプルなロゴのラージヘッド、セミホローボディ(シンライン)、ハムバッカー搭載機種など商品ラインナップを増やしたが、品質の低下や、廉価なコピー商品の横行により業績が悪化。

1980年には主要モデルの生産が止まるという事態に陥っていた。

1982年、ヤマハUSAでの経営手腕を買われ、CBSフェンダーの責任者になったビル・シュルツが、日本の楽器メーカー、フジゲンと技術提携し、神田商会、山野楽器が共同出資して、フェンダージャパンを設立した。

フジゲンは、テスコ(~1969年)、アイバニーズ(1962年~)、グレコ(1960年~1993年)など国産ブランドギターのOEM生産を一手に行う、実質的なトップメーカーだった。

ビル・シュルツは、品質が高く、生産コストの安い日本の楽器製造会社を傘下に入れ、そのままフェンダー製品にしてしまおうという柔軟な発想をしたわけだが、日本人ユーザーにしてみれば、これまで品質は高くても「コピー」だったモデルが、一夜にして「本物」のフェンダーになったわけである。一方、フェンダージャパンができてからもロゴが酷似したTokaiブランドでコピーモデルを作っていた東海楽器製造はあおりを食って1984年に裁判を起こされ、敗訴した。

1985年、CBSが楽器部門から撤退し、ビル・シュルツが社長となってフェンダー社が再興される。だがこれによって、アメリカ国内の生産拠点が無くなってしまった。そこで、フジゲンから杉本眞(Sugi Guitar創立者)が派遣され、その技術支援によりコロナ工場が作られた。また、1987年にはフジゲンとフェンダーが折半して出資し、第三の生産拠点となるフェンダーメキシコが設立された。

1997年、フジゲンは、バブル崩壊後の債務過多のためフェンダージャパンとフェンダーメキシコの株式をフェンダー本社に売却し、会社としてのフェンダージャパンは解散する。

以降、フェンダージャパンは神田商会のブランドとして存続し、OEM生産はメイト御用達の清酒「最愛」の山田酒造と同じ町内にある寺田楽器、かつてフェンダーに敗えられた東海楽器製造、神田商会傘下のダイナ楽器に移る。

ともあれ、今日、世界一のギターブランドとなったフェンダーの隆盛には、フジゲンをはじめ、日本の楽器製造会社の貢献が大きいのである。

ちなみに、今年からフェンダー本社が直接OEM生産を管理する体制になるため、日本製フェンダーは、フェンダーMIJ(Made in Japan)と表記されることになる。

80年代以降、フェンダージャパンを扱う神田商会以外の日本の楽器ブランドは、「精密コピー」を離れ、本家よりも高い品質や機能をセールスポイントとして、オリジナリティで勝負していくことになる。

(つづく)