テクニカルギタリストの系譜(3) | 私、BABYMETALの味方です。

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★今日のベビメタ

本日1月24日は、2014年、筋肉少女帯/BABYMETAL@TSUTAYA O-EASTが行われた日DEATH。

 

1970年代後半、日本でもプログレッシブロックのギタリストがフュージョンに移行する動きがあった。

1969年に高校在学中のメンバーによって結成され、ピンク・フロイドに影響されつつ、1974年にアルバム「一触即発」でデビューしたプログレッシブロックバンド、四人囃子のギタリスト兼ボーカリスト、森園勝敏である。

森園はストラトキャスターを使い、ハードロックの常套的フレーズを得意としていたが、「一触即発」や「空と雲」などで聴かれるフェイザーをかけたクリーントーンのアルペジオやソロはリリカルで、末松康生による心象風景的歌詞世界をよく表現していた。

森園のコード進行は、ブルースの3コードやハードロックにありがちなマイナーペンタとは違って、△(メジャー)や、m7を多用し、当時のロック少年としては、都会的であか抜けて聴こえた。「レディ・ヴァイオレッタ」(「ゴールデン・ピクニックス」所収)は今聴いても、普通にオシャレだと思う。

四人囃子は、日本のプログレッシブロックの金字塔であり、1975年には日本武道館でディープ・パープルの前座を務め、1978年にはリッチー・ブラックモアの「あの時のバンドはまだやっているか」とのご下問により、来日したレインボーの前座も務めた。

ちなみに四人囃子の二代目ベースはのちに音楽プロデューサーとなった佐久間正英で、ちょうど4年前の2014年1月24日、筋肉少女帯/BABYMETAL@TSUTAYA O-EASTのライブ中、前年に故人となった氏に追悼の意を込めてSAKUMA-METALのメタルネームが贈られた。これがアーティストのメタルネーム授与第1号だと思う。

その四人囃子の森園勝敏は、1976年、2ndアルバム「ゴールデン・ピクニックス」リリース後に脱退してしまう。そしてフュージョンバンド、プリズムに参加してしまうのだ。

プリズムを率いていたのは和田アキラというとんでもないテクニシャンギタリストだった。

和田アキラは、レッド・ツェッペリンやグランド・ファンク・レイルロードに影響を受けたが、16歳の時にプロギタリストの松木恒秀に師事し、ローディを務める。松木恒秀は、「昭和歌謡曲」で取り上げた矢島賢や水谷公生らのスタジオミュージシャンが台頭する前、歌謡曲やCMのレコーディングを数多くこなしたジャズギタリストである。

独立後、サンタナや、チック・コリアのエレクトリックバンド、リターン・トゥ・フォーエバーのギタリスト、アル・ディメオラに影響され、プリズムを結成。

和製アル・ディメオラと呼ばれた高い演奏力で注目され、1975年にリリースされたジェフ・ベックのインストゥルメンタルアルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」によって、ロック系フュージョンという音楽の可能性を確信したという。1stアルバム「プリズム」(1976年)は、ハードロック、プログレ、ジャズをミックスしたフュージョンアルバムで、レコーディングには四人囃子から森園勝敏が参加し、そのまま加入。

フロントマンがいなくなった四人囃子は、佐藤ミツルをG、Vとして存続していくことになる。

EVHによるライトハンド奏法ショックの数年前、1976年当時、和田アキラの演奏力、フレージングは、当時のギター小僧にとって驚異的であった。森園やリッチーは頑張ればコピーできるが、和田アキラは無理。さらに和田アキラがインスパイアされたというアル・ディメオラという黒縁メガネの「ジャズの人」は、もっと凄い。

こうしてハードロック一辺倒、リッチー命のギター小僧の前に、フュージョンやジャズという新しい世界が現れ、ラリー・カールトン、リー・リトナー、パット・メセニー、ラリー・コリエル、アール・クルー、ジョージ・ベンソン、コーネル・デュプリー、ジョン・スコフィールドといったアメリカのジャズ系の凄腕フュージョンギタリストたちがいることに気づかされる。

ここでジャズの理論を学びフュージョンへ進むか、EVHのタッピングから80年代メタルブームを突き進み、レインボーのリッチー、マイケル・シェンカー、イングウェイ・マルムスティーン、ポール・ギルバート、クリス・インペリテリへと継承されていくメタルのネオクラシカル速弾きを目指すかで、ギター小僧が二分されることになる。

この頃、日本の大物ロックギタリストも、こぞってフュージョン色を強めていた。

日本のブルースロックの開拓者ともいえる竹田和夫は、1977年に全日本プロレスのドリー・ファンク・Jrの入場曲「スピニング・トゥ・ホールド」でようやく有名になる。印象的なツインギターのリフの後のソロはペンタトニックそのものだが、なんとなく洒落た感じがする。1979年には、テレビドラマ「ムー一族」のOP曲「暗闇のレオ」がお茶の間に流れる。これはもうコード進行や速弾きのフレーズがジャズ的になっており、フュージョン曲といっていい。

さらに、元サディスティックミカバンド~サディスティックスのギタリスト、高中正義がソロ活動を始め、1979年にはインストゥルメンタルのシングル曲「BLUE LAGOON」が大ヒット。インスト曲のシングルを出し続け、1981年のアルバム「虹伝説」では、第23回日本レコード大賞企画賞を受賞。当時カルロス・サンタナも使っていたブルーのヤマハSGを駆使した高中のトロピカルなサウンドは一世を風靡した。

そのカルロス・サンタナも、1969年、伝説のウッドストックでのラテン・ブルースロックから「ロータス伝説」にみられる仏教、東洋思想への傾倒を経て、1976年の「哀愁のヨーロッパ」を初めてラジオで聴いたときには、笑ってしまうほど「ムーディ」になっていた。今ではエロっぽいシーンのBGMになってしまったが、ぼくは初期サンタナとこの曲は完コピしている。

テクニシャンのロックギタリストで、当時フュージョンに行かなかったのは、1977年に「気絶するほど悩ましい」でデビューして「歌謡曲の人」をやっていたCharくらいだった。

1979年4月に大学に入ったぼくにとって、EVHのタッピングは衝撃的だったが、ディープ・パープルやレインボーやスコーピオンズやアイアン・メイデンやジューダス・プリースト、つまりメタルの方向は、なんとなく「卒業」すべきもので、フュージョンやジャズの方が「大人っぽい」と感じてしまった。

YMOは人並みに聴いたし、アメリカのテクノバンドDEVOの武道館ライブにも行った。

テクノはSF的で、プログレに近いと思っていたのかもしれない。しかし、テクノはギターミュージックではないので、自分で演奏するわけではない。

パンクも流行っていたが、政治的、衝動的で、音楽的には単純過ぎて、好きになれなかった。

レコードで聴くラリー・カールトンやリー・リトナーはカッコよかった。

でも、どういうルールでアドリブをやっているのかわからなかった。買ってみたバカ高いジャズの教則本に書いてあることはチンプンカンプンだった。今ならMIのギター科の一年生でやるスケールとコードの関係を、当時は体系的に教えてくれるところなどなかった。それで、演劇に興味が移ったこともあり、ギター小僧を「卒業」し、キングレコードのプログレレコードを集めたり、ジャズを聴いたりする日和りたわけた男になってしまったのだ。

だがしかし。

ジェフ・ベックだけは別だった。

1975年の「ブロウ・バイ・ブロウ」、1976年の「ワイアード」以降、三大ロックギタリストの一人、ジェフ・ベックにとって1980年代は、ヤン・ハマー(Key)やナラダ・マイケル・ウォルデン(D)、スタンリー・クラーク(B)らジャズ系のミュージシャンと繰り広げたフュージョン期にあたるとされている。

スタンリー・クラークバンドの一員として来日したライブを、高校時代に見たぼくの個人的見解でいえば、ジェフ・ベックに限って、それはジャズっぽいお洒落なフュージョンではなく、フュージョン風ロックなのである。

「ワイアード」所収の「蒼い風」は高校時代に完コピした。フレージングはペンタトニックからかけ離れているが、ドラムとベースの刻むリズムはロックだし、クランチ気味の音は、聴きなれたストラトやレスポールの音だった。そのジェフ・ベックの音楽に、ヤン・ハマーやスタンリー・クラークが加わったのが、ベック流フュージョンだと思うのだ。

もともとジェフ・ベックは、ヤードバーズ時代から、ソロの合間に童謡やチャイムの音のハーモニクスを入れたりするポップな感覚を持っていた。(「ジェフズブギー」)

ジェフ・ベックの凄さは、スケールによるジャズ的なフレージングというより、ストラトキャスターという楽器の特性を生かした表現力にある。

例えばボリューム奏法。

フェンダー・ストラトキャスターは、ピックアップのボリュームが右手の小指が届くところにある。弦を弾くときにボリュームを絞っておいて、弾いた直後にボリュームを上げると、遠くから聴こえる海猫の鳴き声、あるいはヴァイオリンのような表現をすることができるので、ヴァイオリン奏法ともいう。

ジェフ・ベックは、シングルコイルが3つあるストラトの音色を微妙に調整するため、5段階あるピックアップのセレクターポジションやボリューム、トーンを頻繁にチェンジする。それほど音色にこだわって表現しているのだ。

また、ジェフ・ベックは、トレモロアームを握ったまま、弦を弾いた後に微妙に揺らすことによって、音程をコントロールする。元々フェンダー社は、西海岸のサーフロック用にトレモロアームを開発したのだが、ジミヘンやリッチー・ブラックモアは、大音量で、フィードバックをかませつつアームを押し下げて「♪ぎゅわーんわんわん」と破壊的な音を出すのを得意としていた。激しくアームを使うと、当然チューニングは狂ってしまう。それでフロイドローズが開発されたわけだが、ジェフ・ベックは、そういう乱暴な使い方をせず、音程ができるだけ狂わないように、ナットをローラータイプにしたりした上で、トレモロアームを繊細に扱い、音を揺らして微妙なニュアンスをつけるために使った。

こうしたストラトによる表現力の探求こそ、ジェフ・ベックのジェフ・ベックたるゆえんなのだ。

さらに80年代に入ると、ジェフ・ベックはピックを捨て、右手は指弾きに移行する。

メタル系のテクニシャンが、正確なフルオルタネートピッキングやスウィープピッキングで速弾きしていったのに対して、ジェフ・ベックは生の指で、和音と単音をミックスして、空間に音を散りばめていく。もちろんピックを持たないからタッピングも自在である。

まさにロックギター表現の求道者。ジェフ・ベックを聴くと、リッチー・ブラックモアとは別の意味で、背筋がちゃんと伸びる感じがする。

こうしたストラトおよびその発展形であるシャーベル、アイバニーズ、ESPといったトレモロアーム付きギターを使う技術は、メタル専門ではなく、セミアコのギブソンES335を使うアメリカのジャズ系スタジオミュージシャンとは別系統のロック系フュージョンの演奏技術なのである。

そしてこの技術が、アラン・ホールズワースやスティーヴ・ヴァイを経て、藤岡幹大や大村佳孝にも継承されていくのだ。

(つづく)