おそ松さん現象(3) | 私、BABYMETALの味方です。

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★今日のベビメタ

本日、1月19日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

 

ついこの間までボーカロイド初音ミクにハマっていた次女が、今、夢中になっているのは、深夜アニメ「おそ松さん」(第1期2015年10月~2016年3月、第2期2017年10月~、テレビ東京系)である。

2005年生まれの次女は「フレッシュプリキュア」(2009年)から「スマイルプリキュア」(2012年)くらいまで夢中になって見ていたが、小学校低学年では「プリキュア」を卒業し、友達の影響で、なぜかすでに放映が終わっていた「犬夜叉」(2000年~2004年)を好きになり、ぼくが海外で買ったDVDセットを繰り返し見ていた。

4年生の頃にはネットにつないだテレビでYouTubeを見ることを覚え、空知英秋原作のSF幕末時代劇ギャグアニメ「銀魂」(2006年~現在、テレビ東京系)にハマった。そのため、幕末のできごとや人名を「銀魂」によってかなり詳しく知っているのだが、関連性は無茶苦茶である。

「おそ松さん」の監督は「銀魂」の藤田陽一で、「おそ松さん」のシリーズ構成、台本の多くを書いている放送作家の松原秀も「銀魂」に関わっていた。

小学生だから、そこまで考えてないと思うが、ギャグアニメとしての「おそ松さん」の登場人物の無茶苦茶な会話や「間」は、「銀魂」にも共通する。

だから、ギャグ好きな次女が「銀魂」から「おそ松さん」に移行したのはある意味自然な流れなのだが、その「おそ松さん」が、若い女性層にウケ、これほどまでに大ヒットになったのは、制作サイドにも想定外だったらしい。

赤塚不二夫生誕80周年を記念して、「おそ松くん」の3度目のアニメ化が発表されたのは2015年7月だった。

赤塚不二夫原作マンガのアニメといえば、代表作といえるのが「天才バカボン」(オリジナル1971年~72年、「元祖」1975年~77年、「平成」1990年1月~12月、「レレレ」1999年~2000年)。

女の子には「ひみつのアッコちゃん」(第1作1969年~1970年、第2作1988年~1989年、第3作1998年~1999年)の印象も強いだろう。2012年には綾瀬はるか主演で実写映画化もされた。

「おそ松くん」(第1作1966年~67年、第2作1988年~89年)と「もーれつア太郎」(第1作1969年~70年、第2作1990年4月~12月)も、ぼくら世代には強烈な記憶に残っているが、正直、80年代後半以降の赤塚不二夫アニメのシリーズ第2作目以降は、ぼく自身が大人になってスレたためか、漫才やテレビのコントに比べると、ギャグがゆる過ぎて面白いと思えなくなってしまった。

アニメという形式がダメなのかというとそんなことはなく、1981年から1986年まで放送されていた鳥山明原作「Dr.スランプアラレちゃん」や、全く同時期に重なる高橋留美子原作「うる星やつら」は、ギャグや演出のテンポがよくて面白かったし、1990年から放送が始まったさくらももこ原作「ちびまる子ちゃん」は、それこそ「昭和」を舞台にしたハートウォーミングなギャグアニメとして現在まで続いている。

つまり、赤塚不二夫の登場人物やギャグは、山上たつひこや鴨川つばめや江口寿史と同じく、マンガで読めば今でも面白いが、アニメとなると、なかなか演出が難しいのではないか、というのがぼくの個人的感想だった。

もっとも、ぼくはあまりマンガを読まないので、原作マンガと比較して語るなどということはできず、アニメになったときに、自分が面白いと思えるかどうかしか判断基準がない。

次女がハマったアニメでいうと、高橋留美子原作の「犬夜叉」は、壮大なストーリーで楽しめたが、ギャグアニメの「銀魂」は当初、SF設定が全然わからず、理解できなかった。

1970年代の「タイムボカンシリーズ」のリメイクとして作られた「夜ノヤッターマン」(2015年)は見たがイマイチだったし、「おそ松くん」が深夜アニメとしてリニューアルされたと聞いても、ピンと来なかった。

ところが、その「おそ松さん」が、なぜか若い女性に大人気となり、1期が終了した際には「松ロス」という言葉まで生まれたという。2017年秋に第2期が始まり、正月に会った次女は、夢中になって「おそ松さん」のことを話していた。

おそ松、カラ松、チョロ松、一松、十四松、とど松という松野家の六つ子が、大人になってもニート生活を続けているという設定。

昭和を代表するギャグ「シェー」で知られる出っ歯のイヤミ、おでんの屋台を引く頑張り屋のチビ太、カワイコちゃんのトト子、いつも裸で大きなトランクスを穿いているデカパン、口が頬よりはみ出しており、語尾が「だよ~ん」になってしまうダヨーン、頭に国旗を刺したハタ坊など、登場人物は懐かしい原作どおり。

だが、子どもの頃リアルタイムで見た白黒アニメでは気づかなかった6人の性格や言葉遣いの違いが細かく設定されており、色彩もパステルカラー風でおしゃれになっている。

各回のストーリーというか2、3本のショートコントは、下ネタ、自虐ネタ満載の全くのオリジナル。シュールなシチュエーションにテンポの速い掛け合いと「間」で笑わせるという作りになっている。六つ子の性格の違いに関するコントが多いので、それぞれに設定されたキャラクターを把握していないと、何が面白いのかすら分からない。

ギャグアニメだから、そこでは時間が止まっており、何かのドラマが進行するわけではない。

舞台は「昭和」ですらなく、六つ子が住む家の中から、近所の釣り堀、宇宙空間にまで飛躍する。

要するに2Dの親しみやすいダメキュートな男の子6人組のアイドルグループが、シュールなギャグコントをやるアニメだ。

「おそ松さん」に夢中になるのは女性が圧倒的に多く、成人男性の「おそ松さん」ファンは、男性ジャニーズアイドルグループファン以下の少数派だと思う。

ファン層の主力が20代のOLさんなので、キャラクター商品は数知れず、PSのゲーム、フィギュア、キーホルダー、文房具、それぞれのメンバーカラーのTシャツ、タオル、パーカーから香水にいたるまで販売され、予約制のカフェまでオープンした。

これはもはや「昭和」とは関係ないように見える。

だが、しかし。

今20代のOLさんたちは、「ALWAYS三丁目の夕日」が封切られた2005年頃には小中学生だったはず。

「プリキュア」シリーズがスタートした時期に重なり、当時の女の子は、アニメのキャラクター商品をコレクションすることに慣れている。

彼女たちの親世代が2005年に40代だったとすれば、その方たちが小学生だったのは昭和40年代。「ALWAYS三丁目の夕日」は昭和33年が舞台だが、それにインスパイアされて起こった「昭和レトロブーム」の中には、昭和41年~42年に放送されていた「おそ松くん」の六つ子や「シェー」をするイヤミのキャラクターもあったはずだ。

少なくとも2005年の小中学生、今20代のOLさんたちも、赤塚不二夫という名前は聞いたことがあったと思う。

大人になり、疲れて帰ってつけたテレビで、新しく始まった深夜アニメが「昭和」のギャグマンガの巨匠、赤塚不二夫原作の「おそ松さん」だった。キャラクターはジャニーズっぽくて、「セーラームーン」と同じくメンバーカラーがあって、ゆるーいギャグ満載で、ホッコリなごめるとすれば、ハマっちゃうのも無理はないという気がする。

小6のクセにハマっている次女は、自分を「体形はコドモ、ココロは20代」と称している。嘘つけ!

以前書いたが、高度資本主義社会における消費という行為は、選択と同義である。

そして数ある商品・ブランドの中から選ばれるものは、購買者が、たまたま人生のある局面で出会って以来「お気に入り」になったものである。選択は自分史と結びついているのである。ぼくらは、自分にとって、同じ使用価値であっても、他とは付加価値の違う何かを、日々選び取って生きているのだ。だから、「お気に入り」の商品やブランドがなくなると、喪失感を感じることもある。

親に反抗した時期があっても、大人になったとき、かつて愛された子ども時代に、親が懐かしげに語っていた「昭和」の大衆文化のイメージが、憎かろうはずがない。

ぼくらの少し上の世代は、彼らの親の世代が過ごした戦前の日本のイメージを、GHQのWar Guilt Information Programに基づく教育によって、暗黒のファシズム社会として教え込まれた。だから、この世代の方々は、親世代が過ごした我が国の戦前の価値観を、真っ向から否定することが多い。戦前の否定が戦後の社会や思潮の主流であり、つい最近まで、戦前の日本を肯定することは、“危険思想”だとさえ見做された。

しかし、彼らより一回り若いぼくらの世代は、親の世代が過ごした終戦直後の日本を、決して「悪い」などとは思わない。むしろ、戦後の焼け跡から立ち上がり、しゃにむに働いて経済繁栄をもたらしたバイタリティに感謝し、敬う気持ちを持っている。闇市やモーレツ社員の成り上がりを追体験してみたいとさえ思う。

同じように、今の若い世代は、親世代のぼくらが経験した高度経済成長期やバブル期を「悪い」などとは思わず、追体験してみたいのではないか。

それが今の「昭和」ブームの正体なのであり、「おそ松さん」現象の要因なのではないか。

だとすれば、それはとても自然で、いいことだと、ぼくは思う。

「戦前」と「戦後」は無理やり断絶させられたが、「昭和」と「平成」に断絶はない。

おそらく「平成」と来年訪れる新しい年号の時代もまた。

(この項終わり)