思てたんとチガウ(1) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日11月25日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

 

ぼくらは、20世紀後半の日本に生まれ、21世紀に生きているわけだが、これはホモ・サピエンス1万数千年の歴史上、もっとも恵まれた社会にいるということである。

ぼくはいわゆる“憂国の士”ではない。

日本の現状をどちらかといえば肯定的に見て、この国に生まれたことを感謝しているし、現状の不備・不満はひとつひとつ改善できると思っている。

太平洋戦争の敗戦後、日本は国民主権となり、性別、出身地、納税額の多寡に関わらず、18歳以上のすべての国民が選挙権を有する。

この72年間、日本が戦争の当事者になることはなかった。

飢餓で大勢の人が亡くなるということもなかった。

犯罪率は、多くの人口を抱える世界の主要国の中で最も低く、色々な不満はあっても法治主義と三権分立が貫徹し、行政担当者が法律の条文を都合よく書き換えることはできない。

通信の秘密、言論・出版・集会の自由は守られ、弱者や病者に「最低限の文化的生活」を保証する憲法と福祉制度がある。上下水道、電気、ガス、電話、インターネットといったインフラは完備し、街や道路や公共施設は清潔である。小中学校は無償であり、高等学校への進学率も98%を超え、公的補助によって事実上ほぼ無償となっている。

高度に発達した資本主義市場経済のもとで、貧富の格差はあるものの、ラテンアメリカや東南アジア諸国、アメリカ、ロシアほどの過酷さではない。そしてデパートやスーパーマーケットにはモノがあふれ、ぼくらが消費者として日々商品を選ぶことで市場が動く。

だから、それらが実現していない国・地域に住む人々、あるいは昔の人々にとっては、夢のような社会だと思う。

その社会で起こっていることの一つが「アイドルとメタルの融合」=BABYMETALが世界で活躍しているという現象なのである。

この現象を分析することは、高度資本主義先進社会における「消費」のあり方や、世界市場における日本製高付加価値商品の受容のされ方、ひいては現代における日本と世界の関係を考えることだ、とぼくは思っている。

だから、日本の音楽史や、ロック/アイドルの栄枯盛衰、その前提となる日本と西欧の文化交流史、当然戦争の問題、それを含む現代の政治思潮や経済動向、メディアとインターネットの在り方など、ほぼ現代社会に関わるすべての要素を動員して、アレコレ考えることになる。だから長く、しつこく、エラそうで、背伸びした教養のヒケラカシに見えてしまう。時としてベビメタとはぜんぜん関係ない方向へ議論がズレてしまうこともある。その自覚はあるよ。申し訳ない。

さて、今回は、消費行動における「偶然」の要素について考えてみたい。

前回、マルクスやハーバーマスが否定的にとらえた「付加価値」や「消費」が、現代資本主義社会では「商品選び」という形で、社会へのコミットメント=コミュニケーションになっているのだ、と書いた。

しかし、ぼくらが日々行っている商品選びは、実はけっこう偶然であり、そこには「自分史」が潜んでいる。

どのアーティストのファンになるか、どのアニメのキャラクターを愛しく思うか、どの芸人に笑えるか、どのブランドの服を選んで着るか、どのメーカーの靴を履くか、といった選択は、ぼくらにとって、社会につながり社会を動かすコミュニケーションではあるが、実は、選ぶにあたって、同じ使用価値の商品に無数の選択肢がありうる現代の日本においては、「偶然」の要素が大きい。

例えば、こういうストーリーはどうだろう。

小学生の頃、たまたま遊んでいた公園に、あるアニメのキャラクターのフィギュアが落ちていた。大事にしていた誰かが落としたのだろう。雨ざらしになってもいけないと思い、濡れないようにベンチの下に置いておいた。それから毎日気になって公園に行ってみるが、その誰かが取りに来る気配がない。そこで、とりあえず家に持ち帰り、そのキャラクターのことをお兄ちゃんに聞いてみた。もう数年前に終わったアニメのキャラクターだった。

しかもそのキャラクターは主人公ではなく、サブキャラであり、お兄ちゃんは「ドマイナーだよ」とバカにする。だが、なんとなく貶されてもそのキャラが愛しくなってきた。でも自分の物ではない。

小学校で先生に相談して、落とし主を探す張り紙をしてみたが、名乗り出る者はいない。

いつの間にか、そのアニメが気になり、お母さんに頼んでDVDを借りて見た。

人気のないアニメだということだったが、大好きになった。しかも自分の持っているキャラクターは実に味のある性格で、主人公を助ける熱血キャラである。

こうして、彼は、そのアニメの大ファンになり、それが高じて、他のアニメも見まくるようになり、高校生になるころには、いっぱしのアニメオタクとなった。

だが、一番好きなのは、最初にハマった、あのアニメである。そして彼の手元にはあのフィギュアが今でもある…。

事例その2。

お母さん同士の仲が良く、親戚づきあいをしていた家族の3つ年上のお姉ちゃんが、小学生アイドルとしてデビューすることになった。アニメの主題歌を歌うグループだという。

そのアニメ「絶対可憐チルドレン」は、ローカル局の放送で、「セーラームーン」や「プリキュア」に比べてマイナーだったが、とにかくお姉ちゃんが時々劇中のキャラ「可憐Girls」としても出てくるので、もう夢中になってしまった。そのころ、家族が重篤な病気になり、入院した。不安な気持ちは、可憐Girlsの「Over the Future」にある「♪絶対可憐、だから負けない、明日へさあ行こう!」という歌詞を聴くことで、吹き飛ぶような気がした。

放送は一年で打ち切りとなったが、その「任務完了ライブ」に行った水野由結は、アイドルという仕事に憧れ、やがて、そのお姉ちゃん武藤彩未と、可憐Girlsのメンバーだった中元すず香がいるさくら学院というアイドルグループに参加することになる。そして今では、中元すず香=SU-METALとともに、世界で活躍するBABYMETALの一員、YUIMETALとなった…。

事例その3。

サバンナの八木真澄といえば、地面に口をつけて叫ぶ「ブラジルの人聞こえますかー」という一発ギャグが有名だが、頭の回転が速く語彙も豊富な相方の高橋が、バラエティでのトークに欠かせないのに比べて、いわゆる天然=スベリ芸のキャラクターである。FUJIWARAの原西孝幸、ますだおかだの岡田圭介、流れ星のちゅうえいなど、一発ギャグの名手は数多いが、そのピュアさは、質量ともに芸人天国である日本のお笑い界でも特筆される。

例えば、「松本人志の許せない話4」で、「干支」が許せないと語る八木は、十二支の中で「辰」だけが実在しないのはヘンだから、全部架空の物で新しい十二支を考えたと言い、「か=河童、つ=ツチノコ、ね=ネッシー、ゆ=ユニコーン(UFO)、た=辰、ち=地底人、お=鬼、い=イエティ、は=半魚人、に=人魚姫、か=火星人、さ=サンタクロース」と自説を披露した。「ゆ」のところで一度「ユニコーン」と言ったのに、後には「UFO」と言っている。

「親戚の子と話してるみたいやな」と爆笑する松本人志が、「それで八木は、どれが一番好きやねん」と聞くと、八木は間髪を入れず「サンタクロース」と答えた。天真爛漫の子ども心そのものであり、無作為のギャグになっている。

だが、そのサバンナ八木は全国的にトップの人気を誇るわけではなく、むしろ、スベリ芸人としての認知度が高い。ところが、小学生の頃からモデルの仕事を始め、東京都下の高校生時代には「オリコンスタイル」の人気No.1読者モデルになっていた少女が、決して一世を風靡したわけでもないそのサバンナ八木のギャグを、たまたまテレビで見て気に入り、自分の芸名にしてしまった。

それが、クールジャパンの一翼を担い、2011年に「PONPONPON」のYouTube動画で、Kawaiiを世界に広めたBABYMETALの先行者、きゃりーぱみゅぱみゅである。

そのギャグとは、「ワタシハ、パミュ星人ダ。ぱみゅ。」というものだったらしい。なんでこれが「世界一カワイイギャグ」(ウィキペディア:八木真澄の項)なのかよくわからないが、エキセントリックな母親に芸能活動をコントロールされていたらしいKPPにとっては、琴線に触れるものがあったのだろう。

このように、同じ使用価値の商品に無数の選択肢がある中から、ただひとつのブランドを選ぶのは、全ての商品を検討した結果というよりは、たまたま何かのきっかけで見かけ、気に入ってしまうという偶然の要素が大きい。CMでガンガン流れているから、「アレ欲しい」「買ってみよう」となることもあるが、試してみてダメならお気に入りにはならないから、積極的な「選択」の主要因にはならない。

その商品やブランドを、ぼくらが「お気に入り」として長く保持するのは、その商品が自分の人生史に偶然にもグイグイと入って来た場合に限る。場合によってはアイデンティティの一部になってしまう。君は〇〇派だけど、ぼくは××派だよねという風に。

そのブランドや商品が、自分にとっては何より大切であり、関連商品を見かけたらコレクションせずにはいられない。それがなくなったら自分の心にポッカリ大きな穴が空いてしまう…。

バブル期には、「ブランド志向」という言葉に象徴されるように、イタリアやフランスの有名ブランドの服や小物を身につけることがステイタスであり、自分のアイデンティティの証であるかのように思う人々がいたが、バブル崩壊後の失われた20年になると、むやみに有名ブランドを追うのではなく、同じ価格帯であっても特定のメーカーや生産地の商品を積極的に選ぶ、「こだわりの〇〇」へとシフトしていった。

カップラーメンの銘柄にこだわるとか、スニーカーの型番や年式にこだわるとかという、大量生産品の中での「意味づけ」である。ブランド志向からオタク化への流れと言ってもいい。

日本では、バブル期~デフレ時代という経済状況の激変にもかかわらず、資本主義市場-消費経済の中で、商品になんらかの差異や意味を見出す消費者心理が発達していったのだ。

バブル期、消費者の「ブランド志向」について、マルクス主義を出発点とした日本の哲学者や評論家は、そうした心理を物神崇拝(フェティシズム)として批判していた。マルクスが『資本論』の「商品」という節で、商品は「労働」の社会的交換価値を表していて、貨幣や資本や商品それ自体に意味や力があると思い込むのは錯覚に過ぎず、物象化とか物神崇拝とか言って否定的に扱っていたからである。

しかし、実際問題ぼくらは、直接自然に働きかけてモノを作るのではなく、食料、衣服、生活必需品、書籍やCDに至るまで、ほぼ100%の生活物資を商品として購入する社会に生きている。わずかに家庭菜園やDIYで手作りするモノがあるが、それも材料はどこかで購入してこないと始まらない。

ぼくらの労働もまた、自分の属する会社や組織による商品またはサービスの企画・開発・生産・流通・販売・管理をめぐって行われる。

商品が労働の総体であることは間違いないが、その商品の交換価値は、かけた労働時間の総和ではなく、付加価値の差異であり、もっといえば偶然の要素で売れたり、売れなかったり、お気に入りになったり、ならなかったりする。

そして、ある商品やブランドが淘汰され、新しい商品やブランドが登場するのは、まさにこの偶然も含めた差異のせいである。

つまり商品それ自体に、人間にとっての意味や力があるとしなければ、高度資本主義社会=消費社会のメカニズムは説明できない。なぜなら、資本主義社会とは、数値化できない、心を持った人間の営み=市場に経済を委ねるしくみなのだから。

そして、この場合の人間とは、大量生産商品にさえ、なにがしかの差異や意味を見出し、気に入ったり、気に入らなかったりする人間、すなわちオタクである。高度資本主義社会における消費者=主権者=人間像とは、オタク的人間なのである。

(つづく)