紅白歌合戦に思う(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ

本日11月22日は、2015年、OZZ FEST IN JAPAN 2015@幕張メッセに出演した日DEATH。

 

ユルゲン・ハーバーマス(1929年~)は、ドイツ・フランクフルト大学の社会研究所に拠ったフランクフルト学派の社会学者・哲学者である。

若い頃は階級闘争的な共産主義革命を支持していたが、ソ連や東欧社会主義諸国の「国家権力・支配階層による民衆の隷属的支配」を目の当たりにして、マルクス主義=コミュニズムの主要概念である「労働」「生産力」や労働者の独裁権力による「資源の再分配」というしくみだけでは、理想的な社会は築けないと考えるようになる。

確かに「労働」は、自然に働きかけて飢餓や貧困から人々を救い出す。だが、人々を支配と隷属の関係から解放して、幸福で自由に暮らせるコミュニティを作るには、「相互行為=コミュニケーション」が不可欠だとハーバーマスは考えた。

西欧哲学では、前に書いたデカルトの「コギト エルゴ スム」(我思う故に我あり)以来、「我」=主観と、その対象となる「モノ」=客観とを分離する考え方が主流となっていた。

それが客観的事実を重視する科学を生んだわけだが、自分以外の人間もまた、「我」が働きかけ得る「モノ」に過ぎないと考えれば、他者を自分の思い通りに支配しようとする全体主義が生まれる。

こうした見解は、フランクフルト学派の先輩のアドルノ(1903~1963年)にもあるが、ハーバーマスはそこからさらに進んで、他者にも主観があることを認め、相互に働きかけ合う関係性=「間主観的」あるいは「相互主観的」な考え方に立脚して、「相互行為」=コミュニケーションの重要性に気づいたというわけだ。

しかしまあ、こんなこと、ドイツ人の哲学者にわざわざ言われなくても、日本には「お互いさま」という言葉があるし、相手のことを「ワレ」と呼ぶ文化もあって、つまり日本人は昔から「間主観的」に生きてきたのだが。

ハーバーマスが鋭いのは、政治や経済の分野における法律や規則や命令などの制度も、他者に働きかける「相互行為」であるとし、にもかかわらず、構成員の了解を求めるためになされるわけではないのでこれを「戦略的行為」と呼び、一人一人が自由に意見を言い合い、了解・合意を形成するために行う「相互行為」である「コミュニケーション的行為」と区別したことだ。

「戦略的行為」は、社会のしくみを効率的、合理的に整えていく「システム」に属し、構成員の了解をいちいち求めず制度化していくツールだが、それもまた、社会の発展にとっては必要だとする。

一方、一人ひとりの人々は「生活世界」に属し、そこでは意見を言い合い、合意や了解を形成する「コミュニケーション的行為」を行っている。

19世紀ヨーロッパのコーヒーハウスやサロンや読書会では、そこでの議論が「国家はどうあるべきか」という「公共」の問題にも及んだ。ハーバーマスは、そういう議論の場を「公的領域」もしくは「公共圏」と呼んだ。

その後、ロシアで革命がおこり社会主義国家が誕生したが、人々の「生活世界」での「コミュニケーション的行為」を軽視したため、支配と隷従の社会になってしまった。

西欧では資本主義が高度に発達し、労働者政党の要求により福祉国家が実現したが、それによって、市民は「受益者」「消費者」になってしまい、意見を言わなくなった。これも放っておくと、社会の「システム」による制度化のプロセスが、「生活世界」を侵食し、やがて構成員の意志が反映されなくなる。

この状態をディスコミュニケーションといい、それを解消するのがディスカッションである。暴力的な「革命」によらず、社会の構成員が意思を反映させ、合意形成を行えるようにするには、一人一人の市民が自由に意見を言い合う場、すなわち「公共圏」がぜひとも必要なのである…。

(参考:『公共性の構造転換』(1962年)、『コミュニケーション的行為の理論』(1981年)ほか)

19世紀的なサロンがなくなった今、新聞やマスメディアは、民主主義の「公共圏」たるべし。

学生時代のうろ覚えで、色々とマチガイがあるかもしれないが、40年近く前に大学で教わったマスコミ論で、ハーバーマスの公共性を論じた教授はそう主張していたと思う。

その観点から現在のメディア状況を見てみると、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。

実は、ハーバーマスは「公共圏」での議論が「真理」=社会的合意を形成するうえで、最も大切な条件を3つ述べている。

それは議論の参加者が事実に基づいて意見を述べる「真理性」と、意見が社会的な道徳にマッチしているという「規範適合性」と、さらに参加者が嘘をつかない、都合の悪いことを隠蔽しないという「誠実性」の3つである。

議論の参加者がこの3つに基づいて議論する限り、必ずどこかで「了解」が得られる。それを社会の「システム」(=制度)が取り入れていけば、社会はよい方へ発展していくはずだというのだ。

日本の大新聞は、欧米と違って宅配され、自他ともに公的メディアであろうとしている。

また日本のテレビ局は、クロスオーナーシップという根本問題を抱えているが、それでも、放送法に規定された公正性を担保する義務を負っている。

要するに戦後日本のマスメディアは、社会をよりよい方向へ発展させていくための「公共圏」として存在していたはずであり、マスコミ志願者は少なくとも学生時代にハーバーマスの名前くらいは聞いたことがあったはずだ。ハーバーマスの3条件といわずとも、公共性を担保することが何より重要だということは、わかっていると思うのだ。

ところが、現在の日本のマスメディアの中には、明らかにこの3条件や公共性を逸脱し、デスクや番組プロデューサーが、視聴者や購読者を一定の方向にリードしようとしているように見えるところがある。

例えば、あるテレビ局は、東京都議会議員選挙報道において、公職選挙法違反の選挙妨害をしていたグループの違法性を報じず、それを非難した首相の発言だけを切り取って集中的に報道した。

例えば、ある新聞は、岡山理科大学の獣医学部新設について、国会証言をした参考人の発言を均等に扱わず、一方の参考人の発言だけを重点的に報じた。

これらは、ハーバーマスのいう「公共圏」の3条件を知らないか、あるいは意図的に公共性を捨てたといわれてもしかたのない事例だと思う。

そして、マスメディアに代わって、現在「公共圏」たり得ているのは、インターネットである。もちろん、すべてのインターネットのコミュニケーションサイトやブログやSNSとその参加者が、この3条件を満たしているわけではない。しかし、少なくともこうしたサイトが無数にあることで、ユーザーはさまざまな主張を検証し、相対化することができる。

ハーバーマスが夢想したような、自由で対等な意見交換が行われ、それが「民意」を形成して、社会制度に影響を与えるといったプロセスが実現するかもしれない。

BABYMETALもまた、インターネット時代の申し子である。

テレビと新聞と雑誌しかなく、YouTubeにブレブレのファンカムを上げてくれたメイトさんがいなかったら、人生を半分投げ出してフテクサレていた2015年のぼくが出会うことすらできなかっただろう。

ただ、実はBABYMETALは、かつて当のNHKでは特権的に取り上げられていた。

2014年12月の「BABYMETAL現象~世界が熱狂する理由」と2016年4月の「BABYMETAL革命~少女たちは世界と戦う」という2本の特集番組がそれである。

今年「偏向報道」が指弾され、デモ隊まで繰り出したTBSでは、2014年6月「NEWS23(BABYMETAL VS 稲田朋美クールジャパン担当大臣対談)」、2015年10月「ニュースの視点 メタル復権とBABYMETAL」のやはり2本が特集されていた。

テレビ朝日では、2014年2月、2014年12月、2015年12月、2016年4月の合計4回、タモリ司会のMusic Stationに出演した。

このほか、日テレの番組にも何本か出ているし、少なくとも、2016年まではこれらの局がBABYMETALを拒否していたなんてことはないのである。

そして、実はハーバーマスにも考慮されていなかった事態がある。

それは、高度資本主義社会においては、「消費者」は、意見を言わない、公共性を持たない愚民ではないということだ。

ぼくらは商品を選び、購入することで、その付加価値によって満足し、「Re-Creation」され、労働力としての自分を再生産しているのだということ、さらに商品を選び、購入することで、生産―流通という経済のあり方に、常に「意見」を言っているのだということだ。

コミュニケーションは、「言語」だけによってなされるのではない。

高度資本主義社会では、「消費」もまた生産に結びつけられ、社会全体を突き動かすコミュニケーションそのものなのだということだ。

(つづく)