猿とテクノオリエンタリズム(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ

本日11月8日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

 

「猿の惑星」はフランス人作家ピエール・ブールによる小説が原作。

ピエール・ブールは、第二次大戦中、ナチス政権下のフランスを脱出して、パルチザン組織自由フランス軍に加わり、仏領インドシナ(ベトナム)、日本軍占領下のビルマ~中国で、秘密諜報員として抗日レジスタンスを支援していたが、1943年に日本軍の捕虜となる。翌年、捕虜収容所を脱走し、イギリス軍の水上機でインドに脱出。カルカッタで終戦を迎えた。

この経験から、日本軍=アジア人=猿が支配する悪夢のような世界という着想を得、それを小説にしたのが、「猿の惑星」である。つまり、猿とは日本人のことなのである。

ブールの原作を採用し、アメリカ人宇宙飛行士が到着した惑星が猿に支配されており、それは人類死滅後の地球だったという「猿の惑星」第1作のプロットは、明治維新によって急速に近代化し、列強の一角を占め、言うことを聞かなくなったため、原爆を落として勝利し、憲法で軍隊を持つことを禁止したにも関わらず、高度経済成長によって再び勃興した日本人に対する、ハリウッド=アメリカ人の無意識の恐怖感を表している。

第1作が作られた1968年の時点では、続編の計画はなかったが、大ヒットのため気をよくした20世紀FOXが、急きょ制作したのが第2作だった。

第2作は、退化人類のコロニーの王となったテイラー大佐が絶望に陥り、最後の核兵器で地球を爆破してしまうという、虚無的かつ「核兵器絶対反対」的な視点で描かれ、これまた大ヒットした。

第3作は、猿であるジーラたちの知能が高いことでもてはやされるものの、人類を滅ぼす可能性があるとわかると徹底的に排除する、猿=「黒人差別」問題のメタファーになった。

第4作と第5作は、奴隷にされた猿による革命と、猿と人間の共存という、いかにもハリウッド的な大エキストラによる戦闘シーンと、そこに至るストーリー展開に力点が置かれているが、時代背景を考えれば猿=「労働者による社会主義革命」の比喩以外の何物でもない。

つまり、原作者ブールが描こうとした「猿の惑星」の本来的な意味、すなわち猿=日本人というイメージは、旧第1作にしかない。

「アメリカ人の視点」で描かれた旧第1作とは全く違い、“リブート(再起動)”と銘打った2010年以降の3作は、主人公が猿のシーザーであり、徹底して「猿の視点」で描かれる。

薬物による知能向上&人類絶滅というご都合主義はともかく、観客はどうしても主人公、「人間よりも人間らしい」猿の王、シーザーに感情移入して観ることになる。

これは“リブート”のプロットが、旧シリーズの第4作、第5作を下敷きにしているからともいえる。

だがしかし。

一見「猿の味方」に見える新シリーズの「猿の惑星」は、ちっとも猿=日本人の立場を理解していない。それどころか、猿=日本人に対する偏見に満ちているといっていい。

旧シリーズの「3955年の未来から来た猿の子孫」にしろ、新シリーズ第1作の「ALZ113」にしろ、「猿の惑星」シリーズで、猿の知能が向上したのは、自然に進化したからではなく、人工的な理由だというところは共通している。

もし、旧シリーズ第3作で、ジーラとコーネリウスがタイムスリップして1973年の地球に来なかったら。

もし、新シリーズ第1作で、ALZ112を投与された母猿から生まれたシーザーが、大量生産されたALZ113を仲間たちに配布しなかったら。

猿は猿のまま、知能が低いままであり、猿が人間を支配することなど、あり得なかったはずである。

何度も言うが原作者ブールにとって、猿とは日本人のことである。

つまり、「猿の惑星」でハリウッドの制作者たちが執拗に表現しているサブリミナル・メッセージは、「日本人は、西洋人が与えた近代文明がなかったら、こんなに発展しなかった」ということなのだ。

これはあからさまなオリエンタリズム(エドワード・サイード)ではないか。

オリエンタリズムとは、西欧人の観光客の視点から、「アジア人はアジア人らしく、西洋人が好む、美しくノスタルジックな異国情緒を残した前近代のままでいなさい」という差別意識のことである。

ハリウッドおよび“進歩的”アメリカ人は、往々にして無意識にオリエンタリズムに陥る。

よその国にやってきて、偉そうに開発反対運動に参加する白人環境保護団体がこれに当たる。経済発展を優先するか、自然環境を守るかの決定権は、よそ者にはない。地元住民にしかないのだ。

“古き良き日本”を愛し、原発反対デモや護憲集会に参加し、BABYMETALは「世も末」だとのたまうピーター・バラカンもこれだ。

実は、前回絶賛した「ブレードランナー」もまた、テクノオリエンタリズム映画である。

原作者のフィリップ・K・ディックは、製作が始まった1981年当時、映画化交渉権をハンプトン・ファンチャーに売り渡したことをすっかり忘れていて、リドリー・スコットがクランクインしたことを、業界紙の記事で知った。蚊帳の外に置かれていたのである。

ファンチャーが書いたシナリオを入手したディックは、それをこき下ろした。「アンドロイドが人間的すぎる」というのだ。ディックがイメージしたのは、アンドロイド=ナチスだった。感情を持たず、無慈悲に戦闘を遂行する優秀なロボット兵士たち。

結局、リドリー・スコットのフィルム・ラッシュを観て、その世界観のすばらしさに納得したディックは矛を収めたが、公開を待たずに1982年3月に亡くなるまで、レプリカントが人間性を持つことには違和感を表明し続けた。

今回ぼくが観た「ブレードランナー2046」のKを演じたカナダ人俳優・歌手のライアン・ゴズリングは、「ラ・ラ・ランド」(2016年の恋愛ミュージカル映画)とは打って変わって、終始抑えた演技で、ストーリーが進むうち、どんどん存在感を増していく。純朴で、切ない表情に、女性ならばグッとくるだろう。

ただ一カ所、彼が感情を爆発させるのは、自分の記憶が「本物ではない」と告げられるシーンなのだが、記憶している通りの場所で木馬を発見することによって、かえって自分が「奇跡の子」ではないかと確信する伏線になる。

それはともかく、Kは感情表出を抑え、笑わず、「Skin(人間の皮をかぶった人間モドキ)」と陰口をたたかれながら、勤勉かつ忠実に職務をこなす有能な知的労働者である。「恋人」はオタクらしく、3DホログラフィーのA.I.ジョイ。これはアメリカ社会での「日本人」そのものではないか。無精ひげを生やしたKの姿は、どことなくイチローを思わせる。

街角には日本語の看板があふれ、モニターにはSONYの文字が踊る「ブレードランナー」世界の造型。それは半分、現実にアメリカ人が見ているものであり、心理的に、日本人=ロボット=レプリカント説を補完しているではないか。

猿もレプリカントも、人間=白人に対する反乱を予感させる存在、つまり日本人なのだ。

「猿の惑星」が古いオリエンタリズムだとすると、「ブレードランナー」は、その現代版、テクノオリエンタリズムのサブリミナルメッセージを発しているといえる。

だが、日本人は、猿でもロボットでもない。

日本は、少なくとも1800年以上の歴史を持つ国であり、確かに明治維新によって近代化したとはいえ、1400年も前に「和をもって貴しと為す」という成文憲法を持ち、中国文明に学びつつ、ひらがな、カタカナを開発し、独自の文化を発展させた国である。

宗教的・政治的権威としての男系天皇制を堅持しつつ、戦国時代には群雄割拠して各地で軍事力と生産性を向上させ、江戸幕府によって全国統一されてからは、260年間、秩序と安定、公正を志向する政治の仕組み、高い識字率と清潔な町並みに見る民度の高さ、問屋制に見る資本主義経済のしくみと交通網、瓦版、浮世絵、漫画、歌舞伎、日本料理など、現在「日本文化」と呼ばれるもののほぼすべてを作り上げた。

K=レプリカントが「大義のために死ぬ」から崇高だというのは、笑止千万。

日本人のサムライ精神、つまり『葉隠』の「武士道と云ふは、死ぬことと見つけたり」というのは、「自分のために生きても空しいだけだ。誰かのために生き、死ぬことで、人生をまっとうできるのだ」という、志ある日本人なら誰でも持っている哲学だ。

こうした高い文化と国民性をもっていたからこそ、1600年代初頭、スペインやポルトガルに植民地にされることもなかったし、イギリス、フランス、オランダなどが次々にアジア諸国を植民地化していく19世紀帝国主義時代にも一致団結して当たり、1868年の明治維新以降、急速に近代化し、「富国強兵」に成功した。1891年の大津事件に見られるように、わずか20数年で、近代的な法治主義も確立した。

「西洋文明を学んだから」「第二次世界大戦の敗北で民主化されたから」日本が発展したのではない。

スペインが南米で銀鉱山を開拓するまで、日本で産出する銀は世界の基軸通貨だったし、絹織物、陶器・漆器はヨーロッパ人富裕層の憧れだった。ゴッホやゴーギャンは日本の浮世絵に多大な影響を受けたし、葛飾北斎の「北斎漫画」は、あらゆるコミック、アニメーションの原点である。

つまり、日本人が「異質」だと思い込んでいるハリウッドや、“進歩的”アメリカ人こそ、無知なのである。

日本は昔から世界とつながっている。過去も未来も、日本は世界史の一員である。

だから、BABYMETALも突然誕生したのではない。

キツネ様の信仰は古代から連綿と続いてきたものだし、「BABYMETAL DEATH」で、花道から神出鬼没に降臨する演出や白塗りは、歌舞伎譲りである。

もちろん、メタルという音楽はイギリス発祥であり、BABYMETALはそのレガシーを受け継いでいる。だが、そこに「アイドル」を接木したって、和風の「ソレソレソレソレ!」を接木したって、それがBABYMETALの「異質」さを表していると思い込むのは、無知なアメリカ人の刷り込みに過ぎない。日本人自らそんなものにつき合う必要はない。

アメリカのミクスチャーバンドUnited Nationの楽曲は、シタールを入れてインド風だったり、ブズーキを入れて中東風だったりするが、立派に「メタル」である。

Arch EnemyやNight Wishなど北欧のメタルバンドは、ケルトやバイキングの民族音楽を取り入れているし、女性ボーカルがメインだ。

そもそも、ハードロック史上に輝くテクニカル系ギタリストといえば、バッハ音階の速弾きを導入したリッチー・ブラックモアはイギリス、短三度・長三度を基本としたタッピングを導入したエディ・ヴァン・ヘイレンはオランダ(移民)、スコーピオンズのマイケル・シェンカーはドイツ、イングウェイ・マルムスティーンはスウェーデンとそれぞれ国は違うが、いわゆるアングロサクソン~ノルマンの北ヨーロッパ人という共通性がある。

その感性が、ヘンデル、バッハ、モーツァルト、ベートーベンらの古典音楽の感性と響きあって、ペンタトニック中心のR&B/ロックンロールに、クラシカルな三連符系の速弾きが接ぎ木されたのではないか。

そういう歴史から見れば、メタルに出身地の音楽、音階を取り入れるのは、ちっとも「異質」ではない。BABYMETALは、日本の文化や音階を取り入れた。まさにメタルの本道ではないか。

第一、「猿の惑星:聖戦記」や「ブレードランナー2049」など、今や、猿やらレプリカントやらを主人公にしないと、ハリウッド映画そのものが成り立たない。

未来を考えるとき、日本人の生き方や文化は、疲弊した白人のイデオロギーに代わって、世界のモデルになりうるのだ。

 

多摩動物公園の名物オランウータン、ジプシーが死んだ。享年62歳。多摩動物公園開設当初に、ボルネオ島からやってきた。

ジプシーは優しい性格で、本を読む姿、帽子をかぶってポーズをとる姿、地震の際に子猿をかばう姿などが撮影されている。ある女性会社員は、ジプシーに人生相談するために名古屋から通ったという。彼女が訪ねるとジプシーは「どした?」と近寄ってきて、「うんうん」と聞いてくれた。彼女はジプシーによって救われたという。

猿にだって、ちゃんと知性と優しさがある。日本人=未開な猿と思い込むのは、二重の意味で無知、かつ失礼な話なのだ。合掌。