BABYMETALを準備したもの(5) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日10月27日は、2012年、さくら学院祭2012@恵比寿ガーデンホールが行われた日DEATH。

 

こうしたアーティストの動向とは別に、1990年代の日本では、やがて来るBABYMETAL受容の土壌となった事態が進行していた。

ひとつは、ロックファン、音楽ファンが「ライブ」というものに慣れ親しんでいったということ。もうひとつはインターネットの普及である。

中元すず香が生まれた1997年、イギリスのグラストンベリーフェスティバルをモデルに、日本初の大規模郊外型ロックフェスティバルとして、第1回フジロックフェスティバルが開催された。

富士山麓天神平スキー場で行われた初日に出演した海外バンドは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、レイジ・アゲンスト・ザ・マシーン、そしてフーファイターズであった。豪雨のため2日目は中止となり、大混乱で終わったが、このラインナップには何か運命的なものを感じざるを得ない。

フジロックは、水野由結と菊地最愛が生まれた1999年以降、現在のように新潟県苗場スキー場で行われるようになるが、2000年には、幕張メッセと大阪舞洲を会場とする都市型ロックフェスとしてサマーソニックが開催された。第1回、第2回には「ギミチョコ‼」を作曲した上田剛在籍のThe Mad Capsule Marketが出演している。また同年、フジロックとサマーソニックの中間形態といえる茨城県国営ひたちなか公園で2週にわたって開催されるロックインジャパンもスタートした。

以前書いたが、日本のロックフェスティバルの歴史は1970年代に遡れる。

だが、ハウンドドッグの事務所が主導した「ロックンロールオリンピック」(1981~94年)を除いて、いずれも単発あるいは数年で終了しており、特にバブル期の企業スポンサーによるロックフェスやチャリティ・コンサートは、出資企業の業績が悪くなった途端に終わってしまう、メセナとは名ばかりのものであった。

しかし、フジロック、サマーソニック、ロックインジャパンは、ちゃんとイベント会社が採算をとり、継続することを前提に計画されたものであり、それが成功したのは、1990年代後半、ようやく日本でも欧米型の大規模ロックフェスが定着したことを示す。そしてここから推測されることは、これらのロックフェスを埋めるオーディエンスが、日本でもちゃんと育っていたということだ。

1980年代後半~90年代の音楽シーンの中で、例えば渡辺美里は1986年から2005年まで毎年西武球場を埋め尽くす大規模なスタジアムライブを開催していたし、GLAYは1999年に、幕張メッセで史上最多の20万人を動員したGLAY EXPOを開催した。

だが、いきなり大規模ライブにオーディエンスが集まるようになったのではない。

1960年代から地方都市にはジャズ喫茶やライブハウスが必ずいくつかあり、1980年代には目黒鹿鳴館のような小さなライブハウスで、夜な夜なアマチュアやインディーズのバンドが活動していた。そこにはお目当てのバンドを追いかける女の子たち(かつてはグルーピー、今はバンギャ)や、ライバルバンドの演奏を暗闇からじっと見つめる男の子たちがいたのである。

そうしたアマチュアバンド、インディーズバンドは、メジャーな音楽シーンとは無縁に、思い思いの活動をしていた。それがいっとき表に出たのが、1989年2月11日に始まり、1990年12月29日に終了したTBS系「三宅裕司のいかすバンド天国」(通称イカ天)である。ここから、人間椅子、FLYING KIDS、電気グルーヴ、BEGIN、たまなどが輩出した。

「イカ天」には出なかったが、ライブハウスでは人気を集めるインディーズバンドが各地で誕生していた。X-JAPAN(千葉)、GLAY(北海道)もそうだが、1990年にデビューしたLUNA SEA、黒夢(名古屋)、La'cryma Christi(大阪)、L'Arc〜en〜Ciel(大阪)、MALICE MIZER(2代目ボーカルがGackt)、SIAM SHADE(アミューズのKOBAMETALが広報担当)、SHAZNAなど、「パンクとグラムメタルの融合」というべきバンドが“ビジュアル系”とひとくくりにされて、次々とメジャーデビューしていった。

それらのバンドは当初はテレビには出なかったが、やがて歌番組にも出るようになり、集客力がつくと、ライブハウスに収まらず、地方のホールやイベント会場を回る全国ツアーをやるようになり、ライブに集まるファンの数が増えていったのである。

こうして、1990年代、メジャーシーンは世界のメタルやロックの潮流とは切り離されたが、日本独自の多様なラウド系バンドが誕生し、ライブに集まるオーディエンスも着々と育っていったのである。これが、BABYMETALがインディーズのメタルバンドをなぞりつつ、ヘドバン、モッシュといったバンド文化をアイドルファン層に浸透させ、やがてメタルファン層と融合しつつ、ライブに集客できた土壌となった。

 

1990年、ぼくは、長女の誕生と共に大手学習塾の教室現場から本社へ異動した。

社内にはコンピュータの実務家がいなかったので、Basic言語、MS-DOSパッチファイル文法、D-Base、桐、Lotus123、一太郎といったNEC-9801シリーズ用のソフトウェアを自力で学び、「進学情報センター」と称して、学校情報データベースとか入試情報のFAX一斉同報システムとか生徒の受験校合否管理システムとかをしこしこ作っていた。

当時、NECの互換機はセイコーエプソンだけであり、IBM、富士通、シャープはDOS-VといってNECとは互換性がなかった。アップル-マッキントッシュは、かっこいいパソコンだったが何せ高価で、DTPやデザインソフトに強かったため、デザイナーのものというイメージだった。

自宅では98が買えなかったので、やや安価なエプソンのパソコンを買い、モデムをつないで、パソコン通信を始めてみた。Nifty-Serveに学校の先生対象の「教育フォーラム」というのがあったので参加し、夜な夜なチャットだの会議室だのに出入りしていた。そのうち、アクティブメンバーの中で、塾や予備校の先生だけのフォーラムを作ろうという話が持ち上がり、企画書をもってNiftyに行き、「塾と予備校フォーラム」を立ち上げ、初代シスオペになった。

全国に多士済々の先生方がいて、各地でオフ会をやり、登録してくれた会員は最盛期には1万人を超えた。

当時は、モデムを使った従量課金だったので、みかか(=NTT)の料金を節約するため、シスオペ業務としては、巡回ソフトをかまして、全会議室をの書き込みをダウンロードし、いったん接続を切り、コメントを書いて、再度巡回ソフトで書きこんでいくという方法をとっていた。

NEC98シリーズ、MS-DOS、E-Mail、パソコン通信、ソフトは一太郎と桐とLOTUS123で、仕事は完結していた。しかし、WYSIWYG(NWOBHMとは違うよ)というユーザーインターフェース(およびパロアルト研究所の思想性)を備えたマックに対抗して、1991年、MSからもビジュアルにマウスでクリックして次々と「窓」を開けていくマルチタスクのオペレーションシステム、WINDOWS 3.1というものが登場した。CMキャラクターは、本木雅弘だった。

ソフトとしてはMSワードとエクセルというものがデファクトスタンダードになっていく。ぼくはとりあえず社内では「専門家」と思われていたので、しぶしぶ乗り換え、また苦労してワードとエクセルの操作を身に着けた。真黒な画面に白い文字の一太郎に慣れていたので、真白い画面に黒い文字のワードはしばらく違和感があった。

1993年、ぼくは大手学習塾を辞め、自分の会社を作った。1995年になると、DOSに依存しないWINDOWS 95が出て、パソコンのHDやメモリーの必要容量も大幅に上がっていく。CMソングは、ローリングストーンズの「Start me up」だった。

インターネットはまだまだ普及率が低く、ホームページを見るにはプロバイダと別途契約して、ネットスケープとか、WINDOWS標準のブラウザ、IEを使って見ることになるが、常時接続ではないため、素早く見てすぐに切るというアクセスの仕方が主流だった。それでももうインターネット時代だと思って、またもしこしことHTML文法を勉強したが、すぐにいろんなホームページ制作ソフトが出てきたのでやめてしまい、パソ通で知りあったプログラマーに依頼して、スタンドアローンで使えるWINDOWS 95用の学校情報ソフトウェアを開発して販売したりした。

1990年代末、NTTは法人向けにデジタル回線化、インターネット常時接続、ブロードバンド化(動画配信)を推進しており、旗振り役は小室哲哉だった。NTT本社で行われた教育関係者向けのインターネットセミナーの講師のキーワードは「じゃぶじゃぶ使う」だった。

インターネットがパソコン通信と違うのは、URLとかメールアドレスとか、HTML文法とか、プロトコルが世界共通であること、さらに「画像や音楽や動画などあらゆる情報が得られる世界的なビジュアル図書館」であり、「とにかくパソコン同士をつなげ。スタンドアローンに未来はない」ということだった。

現在、かつて唱えられていたインターネットの概念がほぼ完全に実現しているが、2000年ごろは、WINDOWSのバージョンが変わるたびにパソコンも買い替えて、CPUの処理速度やメモリーを大容量化しないといけなかったし、ホームページを作るのも、サーバーも外注、ネット広告も概念自体がほとんどなかった。ブロードバンド(動画配信)は、NTTとIBMが共同で、岡山市のある地域で「実証実験」をやっている段階だった。

家庭に曲がりなりにもブロードバンドが入っていったのは、2003年頃、ヤフーBBのADSLサービスが参入した後だったと思う。

ソフトバンクがJ-Phone→Vodafonを買収して携帯電話事業に参入したのは2006年、サービス開始はわずか10年前の2007年だった。だから今、白戸家の10年というCMシリーズをやっている。アップルi-Phoneの初号モデルが出たのも2007年である。

無線LAN(日本では米Wi-Fi Allianceの認証を受けていない無線LANサービスでもWiFiと呼んでいる)は、当初屋内のイントラネットのコードレス化を意味していたが、i-Phoneなどのスマートフォンの普及のために発達したから、やはり歴史はわずか10年ほどである。NTTの光WiFiのCMキャラクターは、2010年度のさくら学院だった。

中元すず香は、光の天使No.4、水野由結はNo.9、菊地最愛はNo.10である。

今、藤原紀香がUQモバイルのCMで「ノリカエ」と言っているが、当時は中元すず香と堀内まり菜が駅員に扮して「乗り換え」と言っていた。由結と最愛はなぜか風呂屋の煙突の上に座るイチローの周りを回る天使だった。

ブロードバンドインターネット、WiFiサービス、GB単位のメモリーを備えたパソコン、スマートフォンという現在の環境は、ここ10年間で実現したのである。

つまり、今ぼくらが享受しているインターネット環境やパソコンの性能も、最初からあったものではなく、この20数年間、先人たちがひとつひとつ積み重ねていったのであり、日進月歩でようやくここまでたどり着いたということだ。

BABYMETALのMVが欧米で大ヒットし、海外ライブのファンカムや、リアルタイムのツイートや、この「私、BABYMETALの味方です」のようなファンブログが、ファンの間で共有できるようになったのは、どこにいてもスマホから画像やコメントをTwitterのようなSNSにアップできる通信環境、誰でも動画をアップでき、誰でも見ることができるYouTubeのような動画共有サービスが利用できる高速大容量回線という「準備」が整っていたからこそなのである。

(つづく)