BABYMETALを準備したもの(4) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日10月26日は、2014年、Google公式AndroidのテレビCMにBABYMETALが出演した日DEATH。

 

LEGOムービーからの派生アニメ、カートゥ-ンネットワークの「Unikitty」のイントロに、BABYMETALと思しき「新曲」がアップされてましたね。https://www.youtube.com/watch?v=1PeVAp0qBXw

「♪パッパッパ、パッパッパ・・・Let's Go!」というだけですが、明らかにベビメタのSU-、MOA、YUIの声だし、そのあとのバンドのサウンドも神バンドっぽいです。おそらく打ち込みだと思いますが。さらにそのイントロに続くUnikitty、Dr.Foxらキャラクターのヘドバン画像。ほぼ間違いないと思います。

 

サウンドガーデンに共感していたメタリカは、1991年の5thアルバム「Metallica」(通称ブラックアルバム)からオルタナティブロックの影響を受けたグルーヴ・メタルと呼ばれるスタイルへと変わり、アンスラックスは1991年から社会派ラップバンド、パブリックエナミーと組んでツアーを行い、ミクスチャー、ラップメタルといった新ジャンルを切り開いた。

パブリックエナミーとレッド・ツェッペリンの融合と呼ばれた反米帝国主義バンド、レイジアゲンストザマシーンは、アメリカ西海岸で1992年にデビューアルバムを出し、1993年にはKORN(2017年6月BABYMETALを帯同)がデビューしている。

同じ80年代後半から90年代前半、アメリカフロリダ州タンパでは、スタジオ「モリサウンド」を拠点に、カンニバルコープス(YUIちゃんのお気に入り)らデスメタルが盛んになった。

1990年代、アメリカの社会不安とは一応切り離された地域では、パワーメタル(南米)、メロディックスピードメタル、クラシックメタル、フォークメタル、プログレッシブメタル、ブラックメタル(北欧)、ビジュアル系(日本)など、メタルの多様化が進んだ。

アメリカでは、ラップ+ハードコア+メタル=ラップメタル、デスメタル+メロディック=メロデス、オルタナティブロック+メタル=オルタナティブメタル、テクノ+ハードコア+メタル=インダストリアル/メタルコアなどなど、考えうる限りの組み合わせが行われ、そのいちいちに名前を付けて定義するのがばかばかしくなるほどメタルのジャンルが細分化していった。それで、KORNもリンプビズキット(MOAのお気に入り)も、スリップノットもリンキンパークも総称としてニューメタルという呼び方をするらしい。それを一部の評論家は、メタルとは呼ばずモダン・へヴィネスとかラウド系とかいうらしい。

KOBAMETAL世代のメタルキッズたちは、こうした多様な「楽派」の栄枯盛衰を主には専門誌から学び、なけなしの小遣いやバイト代を注いでCDを買って聴き、来日する話題のバンドがあれば足を運んだだろう。だが、大人になっていくにつれ、周りから同好の士が消えていく。社会人になった頃には、メタルファンは変人扱いになった。

というのも、1980年代中盤のメタルブームから1999年までの15年は、日本の音楽シーンが世界と切り離されてガラパゴス化していく時代だったからだ。

日本のロックバンド、アーティストの海外進出といえば、まずは西城秀樹。1974年に日本初のスタジアムライブ(大阪球場、後楽園球場)を成功させた後、1975年、「LOLA」(邦題:「傷だらけのローラ」)をカナダ、フランス、スイス、ベルギーで発売。カナダでチャート2位になるが、それ以降は国内活動に専念する。

同じ1975年、沢田研二も「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」でイギリス、「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」(日本語版「巴里にひとり」)でフランスに進出。フランスのチャート4位となりゴールデンディスク賞を受賞。以降、1978年までフランス、イギリス、ドイツ、ベルギーでシングル盤をリリースし続けた。

続いて、世界の音楽シーンに現在もなお多大な影響を与え続けているYMO。だが、その活動期間は意外なほど短い。

1978年の結成から、1982年の「散開」までわずか5年間であり、ワールドツアーを行ったのは1979年、1980年の2回だけであった。

続いて広島出身の矢沢永吉。

1978年「時間よ止まれ」(演奏は坂本龍一、高橋幸宏、後藤次利)が大ヒットし、長者番付歌手部門第1位となり、『成り上がり』の出版を経て自信をつけた矢沢永吉は、1981年にロサンゼルスを拠点に「YAZAWA」で全米デビュー。通算3枚のアルバムを全米で発売するが、1988年に東芝EMIに移籍し、国内活動に専念するようになる。日本では熱狂的なファン層を維持し続け、俳優デビューも飾り現在もなおCM等に出演し、テレビで矢沢の姿を見ない日はない。

1985年の全米デビュー以来、高く評価されたLOUDNESSは、1989年二井原実(V)の脱退、マイクヴェセーラの加入、1993年の元Xの沢田泰司(B)と、元E・Z・Oの山田雅樹(V)の加入など、メンバーチェンジを繰り返し、1997年の「インド三部作」の一作目「GHETTO MACHINE」からミクスチャーロック色を強くし、欧米でのレコーディング、ライブツアーは1999年に一旦休止することになる。

1987年にジーン・シモンズのプロデュースにより「忍者メタル」として売り出されたE・Z・Oは、初年度こそガンズアンドローゼスに帯同したツアーを行うが、1989年に二枚目のアルバムを出したところで隈取メイクを辞め、1990年には解散してしまう。

このように、果敢に欧米市場へ進出したバンド、アーティストの海外活動期間は短く、バブルの崩壊とともに1990年代の日本の音楽シーンは、国内市場に収れんしていく。その国内の音楽シーンの中心は、前半ビーイングブーム、後半小室哲哉ブームだった。

ビーイング所属のTUBE、B'z、ZARD、WANDS、大黒摩季、DEEN、T-BOLANなど、バンド形式や本格的ロックボーカルのアーティストがヒットチャートを独占したのが1993年。だが同年、trfの「EZ DO DANCE」が大ヒットし、篠原涼子、globe、H Jungle with t、華原朋美、安室奈美恵らに楽曲提供&プロデュースし、1996年にはオリコンチャート1位から5位まで自身の楽曲が占めるという快挙を達成した。

だが、ビーイング所属アーティストの楽曲はロック「的」ではあっても日本語で歌われる爽やかな日本語ロックであり、アグレッシブなへヴィメタルっぽさはない。

TrfとはTetsuya Komuro Rave Factoryのことであり、小室哲哉の音楽はレイブと呼ばれるダンス集会のための音楽である。のり××ピーの逮捕により、日本ではレイブというと違法薬物集会というイメージがついてしまった。ちなみに小室の音楽はシンセサイザーやシーケンサーなどのエレクロトニック楽器を用いたダンス音楽だからEDMの走りだと思うのだが、EDMとは2000年代以降に流行し、ハウスやユーロとは違うモノと“定義”されているらしく、小室の音楽をEDMというと烈火のごとく怒る人がいる。

そんな1990年代に、日本のメタルの炎を燃やし続けたのは、2つのバンドだった。

1985年にデビューした聖飢魔Ⅱは、KOBAMETALをはじめとして、お茶の間の人気者になったが、80年代後半~1990年代を通じて、「ミサ」と称するライブに、「信者」と呼ばれるファンが集い、ギミックに満ちた音楽活動を行った。地球「降臨」時の公約通り、聖飢魔Ⅱは1999年に「地球征服完了」を宣言して解散してしまう。だが、アルバムを「大教典」、シングルを「小教典」と呼ぶセンスは、BABYMETALに確実に受け継がれている。

X-Japanは1989年、日本テレビ「天才たけしの元気が出るテレビ」にコミカルなキャラクターで出演して爆発的な人気となり、全国でツアーを展開し、東京ドーム公演を成功させ、米タイム・ワーナーとの契約を勝ち取る。だが全米デビューを目前にして、メンバー間の不和、Toshiの脱退などにより、1997年12月31日、「紅白歌合戦」への出演を最後に解散してしまう。しかし、御存じのとおり、「We are?」「X!」というC&R、Xジャンプ、「紅月-アカツキ-」などに、モロ、X-Japanの影響を受けているのがBABYMETALである。

つまり、社会人となったKOBAMETALは、1990年代のメタル不遇の時代、この2つのバンドにインスパイアされ、また少数派となっても欧米のメタル状況を追い続け、いつか仕事に生かそうとしていた。その「準備」が、2009年の中元すず香との出会いを奇跡的なものにしたのである。

(つづく)