46年前の広島公演(1) | 私、BABYMETALの味方です。

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★今日のベビメタ

本日10月19日は、2011年、BABYMETALが公式Facebookを開設し、2013年、DVD 「Live Legend、I、D、Z Apocalypse」を発売した日DEATH。

 

今から46年前の1971年9月26日。日本武道館での公演を終えたLed Zeppelinが、大阪で新幹線を乗り換え、広島駅に降り立った。

目的は、翌日27日に広島県立体育館(現広島県立総合体育館グリーンアリーナ)で、「愛と平和」チャリティ・コンサートを行うためである。

広島で公演を行うのは、ロバート・プラントの発案で、来日するなら、どうしても広島の原爆跡地を訪問したいという願いが実現したのだった。

新・新・優しい嵐さん(http://gentlethunder.sblo.jp/article/41010076.html)

我龍待合室さん(http://garyu-machiai.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/1971-d555.html)

のブログを参考に、当時の新聞、雑誌記事から、当時の様子を再現してみたい。

因みに、Led Zeppelinを知らない人は、このブログの読者にはほとんどいないと思われるが、念のためメンバー紹介。

ジミー・ペイジ(G)、ロバート・プラント(V)、ジョン・ポール・ジョーンズ(B)、ジョン・ボーナム(D)。

当時の広島市長は山田節男氏。オックスフォード大学に留学経験があり、社会党右派~民社党に所属、「核廃絶」という言葉や、カタカナ表記の「ヒロシマ」を世界に広めたとされる。

●昭和46年9月28日付中国新聞

-引用-

レッド・ツェッペリンさんポンと700万

広島公演の全収益を被爆者の援護資金に

 来日中のイギリスのロック・グループ「レッド・ツェッペリン」のジミー・ペイジさん(二六)ら一行七人が二十七日午後、広島市役所を訪れ、山田市長に被爆者援護資金として約七百万円寄贈の目録を手渡した。

 同夜、市内基町の県立体育館で開かれた同グループの愛と平和・チャリティーコンサートに先立って、同コンサートの売り上げ金をそっくり贈りたいと申し出た。

 市長公室での贈呈式に臨んだペイジさんらは「戦争を知らない私たちの心の中にも人類が原爆を落としたことへの恥ずかしさがある」などと寄付の動機を話していた。

 これに対して山田市長は「被爆者援護に理解を寄せてもらい深く感謝する」と述べ、感謝状や原爆ドームを浮き彫りにした銅メダルを贈った。

 「レッド・ツェッペリン」は一昨年七月に結成、アメリカをはじめ世界各地で人気のあるロック・グループ。メンバーはギター奏者のペイジさんを中心に四人。広島公演はグループの特別の要望で実現した。

 

ものすごい熱気 5千人のヤング総立ち

レッド・ツェッペリン広島公演

 広島の若者達にもロックは無縁ではなかった―。

 イギリスのロック・グループレッド・ツェッペリンが公演した27日夜の広島県立体育館。押しかけた5千人のヤングたちは、一斉に立ちあがりからだでリズムをとり、手拍子を打ち、舞台の演奏者と一つになって熱狂した。すさまじい熱気と騒音はコンサートというより集会のふんいきズバリだった。

-引用終わり-

記事中の「レッド・ツェッペリンは一昨年七月に結成」との部分は間違いで、Led Zeppelinは、1968年10月からNew Yard birds feat. Led Zeppelinと名乗り、アルバム「Ⅰ」をレコーディングしているので、1971年9月27日時点には、結成後約3年が経過していたことになる。

「広島の若者達にもロックは無縁ではなかった―」とあるのは、当時、ロックは都会のもので、地方都市の広島には無縁と思われていたということだろうか?

だとしたら、このチャリティ・コンサートをきっかけに、西城秀樹、矢沢永吉、吉田拓郎、世良公則、原田真二、奥田民生、奥居香、吉川晃司ら、「歌謡曲」の範疇に入っていても、なぜかロックっぽいアーティストを輩出するRock City広島が誕生したというのもあながち妄想ではないはずだ。

 

●『ミュージックライフ』1971年11月号

-引用-

9月27日(月)広島公演こぼれ話

翌27日は、この来日公演でのハイライト、広島でのチャリティ・ショウが行われる日です。

1時に集合して、市長室へ。

すでに外人の記者を含めて、三十人ほどの報道陣が集まっていて、さっそく記者会見。

なぜこのチャリティ・ショウを行ったかという質問には、ロバート・プラントが素晴らしい答えかたをしていました。

「僕たちが生まれたとき、すでに原爆は落とされていました。しかし、誰が悪い、ということではなく、それはすでに起こってしまったことであり、私たちと同じ人間の仲間が起こしたことです。私達には罪はないけれど、私達仲間の"過去”がやったことで、そのことに対して、やはり申し訳なさを感じます。そして、少しでも自分たちが、苦しんでいる人達の助けになればと考えたのです。

音楽は人々に平和と楽しさを与えるものです。その音楽をやっている僕たちが、少しでも力になれるなら、実に光栄だと思います」

 

そしてこの日の午前中、ロバートとジョン・ポール・ジョーンズは、原爆ドームと平和公園に行っていて、それまでは歴史の教科書でしか知らなかった原爆の実際の爪あとをその眼で見、二十数万の人が一瞬にして死を迎えた事実、そして今もなお多くの人々が後遺症で苦しんでいることを実感としてズシンと味わったと語っていました。感想は、と聞かれて、ジョン・ポール・ジョーンズはただひとこと、「何も言葉がありません」。

そして、この日の夜に行われる公演の切符の売り上げの総額7百万円を、広島市長に目録で手渡し、それに対して市長さんから、感謝のごあいさつと、感謝状および記念メダルをツェッペリン一行にプレゼント。

むろんこの夜の公演は感動と興奮のるつぼと化し、約四千人の聴衆が、三時間の熱演に熱狂のあまり、ステージを目がけて押しかけ、よじ登るというありさまで幕を閉じました。

-引用終わり-

当時の『ミュージックライフ』は星加ルミ子編集長で、この記事を書いたのは、同行取材していた木原紀子記者と思われる。広島のチャリティ・コンサートは「来日公演のハイライト」だったのだ。この記事の中のロバート・プラントの発言に関しては、原文が見つかったので、それも引用する。

 

●ロバート・プラントの発言(http://sound.jp/lemonsong/hiroshima.htm)

-引用-

" We were born after the atomic air raid.

We are not in a position to blame anybody, as it just happened in the past history and it was human being who did it .

It is not our fault , but our "past" should be blamed.

We would like to express our sincere apology about it.

In this regard , we would like to help any victims who have been suffering from the bombing .

Music can bring peace and joy to you .

We , the musicians, will feel honorable if we can be of help to anybody. "

(写真は、8ミリで原爆公園を撮影するジミー・ペイジ、ML1971年11月号より)