メタルのイデア(3) | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日10月11日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

 

CrossfaithのオフィシャルMVは、大都市のビルの地下や、鈍く光る金属の機械やコードが垂れ下がる廃工場のような暗い場所、あるいは無頼の徒が集まる薄暗いバーが舞台となっている。フロントマンのKoie(Ken)は非常に日本的な顔つきであり、登場するメンバーはもちろん、エキストラも東洋人が多いので、その場所が日本もしくは近未来のアジアの大都市であることは一目瞭然である。ビジュアルはダーク、廃墟の美学とでもいいたいような、前衛的で不条理で美しい映像をバックに、メタルコア、メロディックデスメタル、エレクトロニカなどにジャンル分けされるきわめて重い音像を持った楽曲が英語で歌われる。

楽曲はTatsuyaの重く正確なドラムとHiroのうねるベースライン、Kazukiによる歪んだギターのリフを骨格に、曲中でテンポが頻繁に変わる。このバンドの大きな特徴は、天性のフロントマンというべきKenのグロウルからラップ、クリーンなハイトーンのシャウトまで変幻自在のヴォーカルと、Teruによる電子音(マニピュレーション/ヴィジョン)&グロウルとが拮抗しつつ観客を熱狂に巻き込んでいくところにあると思う。

1970年代のハードロックバンドにおけるキーボーディストには、ジョン・ロード(ディープパープル)や、リック・ウェイクマン(イエス)、キース・エマーソン(EL&P)といった巨人が輩出した。技術的には、バッハ的ハモンドオルガン~ブルースピアノをベースにしたフレージングで、ペンタトニックのブルースギターを中心にしたR&B的なロックから、より西欧的で重厚なハードロックのサウンドを作るのに貢献した。シンセサイザーやメロトロンを使用することにより、オーケストラチックで幻想的なプログレ空間を描き出す方向へと発展していった。

1978年、突如YMOが出現し、日本人で初めて世界的なバンドとなった。ドイツのクラフトワークと並んでテクノ/EDMという新しい音楽ジャンルの嚆矢となったが、そこでは坂本龍一のメロディアスなキーボード/シンセサイザーと並んで、松武秀樹がマニピュレーターとして楽曲全体のプログラミングを担当した。これにより、YMOのライブは、それまでのようにミュージシャンが興に乗ったアドリブで観客を熱狂させるのではなく、「無機的」といわれるほどかっちりプランニングされたものとなった。そして人民服を着て無表情に演奏するYMOは、日本人=ロボットというテクノオリエンタリズムのイメージの源泉にもなった。

「日本のロック史」で触れたが、1970年代中葉、日本には、欧米のロックシーンの影響を受けたバンドがたくさんあった。外道、めんたんぴん、ブルースクリエイション(のちクリエイション)、カルメンマキ&OZ、四人囃子、Char、紫、コンディショングリーンなどだ。

当時、日本の音楽界には、「歌謡曲」という一大ジャンルがあり、GS出身のミュージシャン、歌手もそこに吸収されていた。これに対して反体制的な「フォーク」というカウンタージャンルがあったが、これらのロックバンドはそのどちらにも属さず、欧米のハードロックを日本的に解釈した音楽活動を行っていた。もっともカルメンマキは「時には母のない子のように」を大ヒットさせた歌手だったし、高校生の頃からスタジオギタリストだった天才Charは、「歌謡曲」の歌手としてデビューした。

これらのバンドの演奏力や、楽曲のオリジナリティは、現在聴いても色あせていない。だが、GS出身の沢田研二や、新御三家とはいえロック色の強い西城秀樹は欧米市場(英仏)に進出したのに、これらのバンドは、なかなか海外に進出できなかった。

例外としては、竹田和夫(G)率いるクリエイションで、1972年に渡英し、1975‐76年には全米ツアーをクリームのプロデューサー、フェリックス・パッパラルディと組んで行ったが、1984年には活動停止してしまう。その後竹田和夫は1997年にアメリカに移住し、ブルースギタリストとして現地のライブハウスで演奏活動を行っている。ぼくは2004年ごろの来日公演を見た。

こうしたシーンの中で、1981年にアイドルバンド、レイジーが、へヴィメタル宣言をしてLOUDNESSを名乗り、当時へヴィメタルをサポートしていた音楽事務所ビーイングに移籍。1983年にはビーイングからも独立して、レコーディング・エンジニアだったダニー・マクレンドンのつながりで、アメリカのライブハウスにブッキングされ、初の全米ツアーを敢行。帰国後、すぐに渡欧してツアーを行い、ヨーロッパでもアルバム、ライブビデオをリリースした。

二井原実(V)のハイトーンとナチュラルな英語、タイトな樋口宗孝(D)のドラミング、そして高崎晃(G)の卓越した演奏力により人気を博し、欧米のレコード会社数社からオファーがあり、1984年、アトランティック・レコードと7年契約を勝ち取った。また高崎晃は、デイヴ・ムステインの後任として、メタリカ加入のオファーもあった。確かに「Thunder in the East」の楽曲のリフはメタリカを彷彿させるところがある。もし、高崎晃がメタリカのギタリストだったら、BABYMETALのメタリカとのずっ友写真には、カーク・ハメットではなく高崎晃が写っていたかもしれない。

LOUDNESSは、1985年にはLAメタルの雄、モトリー・クルーの前座として、MSGのステージにも立っている。

クリエイションの挑戦から10年、日本のバンドにとって海外進出は大きな飛躍だった。言葉の壁もあり、日本の無名バンドと契約しようという海外のレコード会社、プロモーターなど存在しないと思われていたのだ。しかしYMOの成功とLOUDNESSの海外進出が示したのは、ライブハウスのドサ回りからスタートしても、高い演奏力と音楽性があれば、現地のロックファン、レコード会社はちゃんと評価するという単純な事実だった。

続いて1987年、北海道出身のメタルバンド、FLATBACKERが渡米し、その後、「海外で通用するアーティストの育成」を社是とする音楽事務所アミューズと契約。E・Z・Oと改名して、KISSのジーン・シモンズのプロデュースを受け、歌舞伎風の隈取メイクを施し、ギミック感たっぷりの「忍者メタル」として売り出された。

LOUDNESS、EZOの音楽性は、ぼくの主観ではNWOBHM、LAメタル、グラムメタル「的」であり、キーボード、シンセサイザーによるテーマやリフはあっても、YMO的な無機質な感じはない。当時欧米で主流だったHR/HMの文法に則った、ある意味教科書的な端正な楽曲、演奏なのである。

それゆえ、80年代ジャパニーズ・メタルバンドの海外進出とは、

①1970年代後半~80年代、欧米のハードロックシーンを受容した日本的HR/HMバンドが、演奏力や音楽性において完成の域に達したこと

②バブル期に向かう「Japan as No.1」の時代背景の中で、積極的に海外へ進出しようとするバンドがあらわれ、現地で高く評価されたこと

によって成し遂げられたといえる。

LOUDNESSは、Billboard 200において1985年「Thunder in the East」が74位、1986年の「LIGHTNING STRIKES -Shadow Of War US Mix-」が64位、1987年「Hurricane Eyes」が190位 と3回ランクイン。

E・Z・Oは、1987年に「E・Z・O」が150位にランクインした。

それ以降、2008年にDIR EN GREYの「Uroboros」が114位、2010年「Dum Spiro Spero」が135位、2014年にBABYMETALの「BABYMETAL」が187位、2016年の「Metal Resistance」が39位となるまでの数十年間、日本のメタル/ラウド系バンドがBillboard 200にランクインすることはなかった。ちなみに今年2017年には、ONE OK ROCK の「Ambitions」が106位にランクインしている。

Billboardにランクインしないまでも、日本のメタル/ラウド系バンドが海外ツアーを行うことが普通になっている今は、「Cool Japan」の時代背景とした「Japanese Invasion」の時代だというのは故なしとしない。

海外でLOUDNESSやE・Z・Oが評価されていたころ、日本国内ではもっと人気のあったメタルバンドがあった。

それがKOBAMETALがオマージュを捧げる聖飢魔Ⅱ(1982-99年)とX-JAPAN(1989-97年)だった。

聖飢魔Ⅱはメタルバンドとして初めてNHK紅白歌合戦に出場したが、海外進出には消極的で、ギミック/コミック感あふれる「設定」でTV-お茶の間の人気者になった。

X-JAPANは、「たけしの元気が出るテレビ」で名を売り、日本武道館、大阪城ホールと圧倒的な動員力を見せつけ、東京ドーム3日間公演『破滅に向かって』は、延べ12万人を動員した。ソニーとの契約切れを待って米国ワーナーと契約したが、全米デビュー前に分裂し、活動停止に陥ってしまう。X-JAPANが海外ライブをスタートするのは、2007年の再結成後である。

クリエイションの早すぎた欧米進出、高崎晃のメタリカ加入と並んで、聖飢魔ⅡとX-JAPANが海外進出していたらどうなったか。日本のロックシーンの歴史にはいくつもの「もしも」がある。

華々しい80年代後半のLOUDNESSやE・Z・Oの海外での活躍、90年代後半まで続くX-JAPAN、聖飢魔Ⅱの活動停止までに、日本のメタル/ラウド系の中心軸はビジュアル系へと移る。しかし、メタルが滅んだわけではない。ビジュアル系バンドと総称されるバンドの根底には「メタル魂」があり、この間、ライブハウスで、ロックフェスで、メタル/ラウド系のバンドはずっと活動を続けてきたのであり、熱心なファンはずっとメタルシーンを支え続けてきた。

YOSHIKIプロデュースによるDIR EN GLAYが全米デビューしたり、サラリーマンプロデューサーとしてメタルへの愛を貫き通したKOBAMETALによって2014年、すい星のごとくBABYMETALが欧米メタル界にデビューしたりしたのは、そういうメタル/ラウド系バンドとファンの根強い活動がベースにあったゆえである。

LOUDNESSやE・Z・Oになくて、DIR EN GLAYやCrossfaithやBABYMETALに存在するものとは何か。

それは、1990年代~2000年代に世界のメタルシーンがオルタナティブ、ラップ、ヒップホップを取り込み、NU-METALへと変貌していった歴史である。レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、レイジ・アゲンスト・ザ・マシーン、リンプ・ビズキット、リンキンパークといったバンドが活躍し、日本のメタル/ラウド系もミクスチャーの方向へ動いた。

さらにはメロディックデスメタル、メロコア、メタルコア、スクリーモ、インダストリアル、エレクトロニカ(ピコリーモ)といった、ぼくには定義も区別もよくわからないジャンルの多様化、細分化を受け、アップデートされていった。

LOUDNESSやE・Z・O の音が、ある意味教科書通りのメタルサウンド(例えば「Thunder in the East」はメタリカとレインボーの合体だなというような)であるのに対して、CrossfaithやBABYMETALの音が、あるいはこのブログでもよく取り上げるPassCodeなどラウド系アイドルの音が多様なのは、この間の欧米メタル/ラウド系シーンの音の変化を反映したものだと思う。

そして、大切なのは、その中に、YMOのテクノ~インダストリアル~ピコリーモの音や、海外進出しなかった聖飢魔ⅡやX-JAPAN、ヴィジュアル系の音も取り込まれているという点だとぼくは思う。

つまり「Japanese Invasion」として海外で活躍するバンドの音をレシピ化するとこうなる。

70年代欧米のハードロック/へヴィメタルの端正な音をベースに、YMOが世界に示した電子音、マニピュレータが描き出すインダストリアルな音や世界観、それにリンプ・ビズキットのようなヒップホップやラップの表現力を加えたのがCrossfaithであり、そこにX-JAPANの悲壮感に満ちたツインギターや聖飢魔Ⅱのギミックに満ちた「設定」を加え、最強の戦士としてKawaiiアイドルをフロントマンに据えたのがBABYMETALである、と。

メタル氷河期の間、変わりゆく欧米のメタル/ラウドシーンに影響を受けながら、日本のメタル/ラウド系バンドやプロデューサーたちは、日本独自のテクノオリエンタリズムをも織り込んだ「メタルのイデア」を持ち続けた。欧米のロックファンは、戦争、貧困、社会的不平等、フラストレーション、暴動、悪魔崇拝といった古風なモチーフに共感してきた欧米のメタルファンも、近年のIoT、A.I.による世界支配という事態に対して危機感を覚えるようになった。そこへKoie KenやSU-METALという希代のフロントマンを得て血肉化し、不条理な廃墟のような世界に「メタルの魂」「人間の叫び」を対置する新しいメタルの表現として、Japanese Metalが登場した。それが「Japanese Invasion」の本質なのではないだろうか。

考えてみれば、お人形=ロボットのようなKawaiiアイドルが、Metal Resistanceに立ち上がったメタル美少女戦士となる、という「設定」こそ、テクノオリエンタリズムの視線で見られる日本のメタル表現として至極妥当ではないか。

ジャパメタは今、世界に通じる表現となったのである。