余は如何にしてネトウヨとなりし乎(5) | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日9月20日は、2014年、米国Billboadワールドアルバム部門で「BABYMETAL」が首位になり、2015年には、ULTRA JAPAN 2015 で、Skrillexと「ギミチョコ!」で共演し、2016年、東京ドーム公演Black Nightが行われた日DEATH。

 

前妻はフィリピン人だったので、連れ子の長男が大学受験をする際、学校教育制度についていろいろと調べた。フィリピンでは義務教育が日本より1年遅い7歳児からの小学校6年間、義務ではないが授業料無償の中等学校(High School)が4年間、カレッジが4年間という修業年限となっていた。(現在は、欧米や日本同様、中等教育終了時に18歳になるよう改革が進んでいる。)

初等、中等教育を担うのはほとんどが学区に属する公立学校だが、10%程度がカトリック系の教団もしくは篤志家によって設立された私立学校である。貧しい国なので、公立学校は予算が足りず、設備は圧倒的に質素で、一つの教室を午前、午後の二部制もしくは、夜間を加えて三部制で使用していることもある。教員は安月給で、数も慢性的に不足している。

問題は、初等・中等教育では授業料無償だが、教科書、制服などが有償であるため、貧しい家庭では、就学させられない、もしくは就学させても中途退学させてしまうことである。

結果、最終学歴は、小学校未就学9%、小学校中退28.8%、ハイスクール中退16.2%、ハイスクール卒業18.4%、カレッジ中退8.3%、カレッジ卒業8.0%となっている。(NSO、2003年)

ハイスクール卒業後、2~3割程度の金持ちの子弟はカレッジに行くことになる。カレッジのほとんどが私立であり、国立はフィリピン大学1校しかなく、主要都市に分校がある形となっている。またいくつかの州には州立大学がある。

カレッジは私立なのでピンからキリまである。

名門は、建国の父ホセ・リサールの母校サント・トーマス大学、アテネオ大学、デ・ラサール大学など、世界的にも有名な大学がある一方、医師、弁護士、看護師、介護士など、固定給を望める資格(TESDA)はカレッジでしか取得できないが、日本なら職業訓練校か専門学校程度のカレッジも多い。

実は、初等・中等教育学校のうち10%程度の私立学校もピンキリである。Government Assistance for Private Schoolというプログラムで、若干の補助はあるものの、フィリピンでは原則として私立学校に対する補助はほとんど行われず、教育内容にも容喙しないからだ。

日本の私立学校は、学校教育法、私立学校法等に規定され、幼稚園から大学まで、設置基準と教育内容の統制を国及び地方自治体から受け、その代わりに補助金を受ける。

しかし、これは世界的には例外で、欧米系の教育法体系では、「教育を受ける権利」として、地方自治体によって公立学校が設置され、運営されるが、はっきりいってそれは最低限の教育サービス、福祉の一環である。宗教団体もしくは地元の有力者の篤志家によって設立される私立学校は、「届け出制」であり、税金は免除されるが補助は受けない。その代わりに企業や篤志家の寄付を受ける。教育内容、設置基準などにおいて、国家の統制を受けない。宗教団体と同じく、任意のPrivate Educateであり、全くの自由競争である。

フィリピンは現在人口急増期にあり、小金のある篤志家が私立小学校やハイスクールを開校し、ちゃんと告知すれば、結構生徒が入る。

現に前妻のアメリカ帰りのオカマのイトコは、ぼくらの家と同じ市内に保育園みたいな小学校を作って、モンテッソーリ教育を謳ったところ、大繁盛した。

また、大学の新設も進み、都市部はもちろん、地方でもアメリカ流のCollageがどんどんできている。

だが、入試制度は、日本のような全国共通のナショナルカリキュラムによる学力検査ではなく、基本的には下の学校(カレッジならハイスクール)の成績と、家庭調査(主に収入面)、面接、小論文などで決まる。

スクールガイドや大学の格付けはあるが、それは日本のようにテストの偏差値、つまり入試の難易度ではなく、所属教授の論文掲載数、学生数、設備の充実度、学生の満足度など大学自体の評価によるものである。

予備校(Prep School)もあるが、それはハイスクールの成績を上げるための補習が主であり、「○○高校で何番目の生徒は受かったことがあるが、○○番以下の子は受からなかった」といった情報だけで、母体の違いや家庭の違い、論文や面接の配点もはっきりしない、曖昧模糊とした受験指導であった。

日本流の学力一発型入試をやっているのは、韓国と中国で、日本以上に有名大学に合格することが出世の条件となっているので、過酷な受験地獄となっている。

前妻の連れ子の長男は、ぎりぎりまで何の準備もせず、無謀にも私立の最高峰デ・ラサール大学を受験して落ち、マニラ南部の地元に新設された工業大学のCivil Engineering学部に入学した。3年後、連れ子の長女は、早めにPrep Schoolに通い、マニラ市内の女子大学の経営学部に入学した。

それはともかく、フィリピンの公教育制度を調べる中で見えてきたのは、日本の公教育制度で、従前には「悪いこと」とされてきたことが、いかに素晴らしいかということだった。

初等教育および前期中等教育においては、公立学校中心の学区制で、学習指導要領による全国共通のカリキュラムにもとづき、無償で教科書が配布され、制服がないこと。

後期中等教育からは、学習指導要領に準拠した学力検査中心の入試制度で、出身家庭の貧富や身分、門閥、地縁、血縁などを問わず、学力によって選抜され、高等教育でも同様に全国に国立大学、公立大学があること。私立学校には学区はないが、公立学校に準じる設置基準や教育内容を順守するよう統制を受け、生徒の学力と家庭の資力に応じて、高等教育まで公立と併用されるしくみになっていること。

フィリピンでは、人口が急増しているのに、経済は停滞したままである。学校に行っていい成績をとることが、逆境から抜け出す道であるということがまったく信じられていないから、子どもに小学校を中退させて、農業やロードサイドビジネスをやらせる方がいいと思ってしまう。社会の流動性どころか、学校教育制度が、一握りの特権階層の固定化に寄与してしまっている現状が、国全体に蔓延する「教育への不信感」をますます募らせている。

もちろん、日本の教育制度が完全無欠だというのではない。社会主義国キューバや、高福祉高税率の北欧諸国のように、学校教育はすべて無償という国もある。

あるいは、ドイツのように、大学入学資格は全国共通で、学びたい場所にある大学に登録して学べるというしくみもある。

だが、ぼくは、これがいいとはあまり思えない。

日本特有の、学歴というより学校歴主義は、例えば企業の入社試験において、まだ仕事をしたことがない新卒社員の潜在能力を図るうえで、いわば「保証書」となっている。もし学校歴ではなく、個性を重視して、成育歴や教育履歴もまちまちな希望者を採用するなら、会社は相当のリスクを負わねばならない。

もちろん、中途入社や、新卒であっても学校歴ではなく「個性と能力」でアピールできる人材なら、それだけで採用されるべきだ。排除すべきではない。だが、これから仕事への適正を見て育てる新卒なら、最終学校歴を参照すれば、少なくとも基礎学力、勤勉さ、本番強さなどがある程度判定できる。つまり学校歴主義は、将来の基幹社員候補となる新卒者を採用するうえで、きわめて効率的なのである。

全国共通のカリキュラム、学力検査中心の入試制度、学校歴といった日本ではともすれば「歪み」のようにいわれてきた公教育制度は、実は遅れてきた資本主義国である日本が急速に近代化した原動力だった。身分や門閥にとらわれずに全国から優秀な人材を選別するという国家の目的と、貧しい家庭に生まれても努力すれば最高学府へ進学でき、立身出世できるという“共犯性”が、江戸時代の幕藩体制、身分制度を打ち破り、社会的流動性を生んだのだ。

ところが、日本でも1990年代以降、「推薦入試」「新しい学力観」「絶対評価」などの「教育改革」によって、「いい家庭の教師のいうことを聞く明るくて素直ないい子ちゃん」だけがいい内申点を取り、「ちょっと内気で自分をアピールできないけど頭のいい子」が不利になるという公立高校入試の「改革」によって、崩れてしまった。

また、バブル経済以来の中学受験ブームは、お金持ちの家庭に生まれ、中学受験塾に通い、中高6年一貫校に進まないと、東大をはじめとして国立大学、難関大学には受からないという事態を生んだ。現役東大生の家庭の平均収入は1000万円以上という統計(刈谷剛彦ら)もそれを証明した。

つまり、日本でも、出身家庭の階層が、入学できる大学、社会への入路を決めてしまい、階層を固定化する負のスパイラルの元凶が、学校教育にあるということになってしまったのだ。

これはなんとかせにゃならん。

もうひとつ、フィリピンの公教育制度を調べていて「なるほど!」と思ったことは、フィリピンでは、外国人が学校を設立することはできない、参画するにしても理事会の多数派をとることは数少ない私立学校の法的規制の第一番目にくるということだった。

日本の私立学校の経営母体は理事会であり、多数決で決まるように通常は7名、9名、11名というように奇数になっている。通常は、基本金を寄付して設立した者が理事長に収まり、その子弟や親族が跡を継ぐ。

ただし、私立学校は公益法人なので、設立者の理事長といえども、私物化できないように理事長の親族や雇用関係にあるものが理事定数の1/3までしか就任できないことになっている。だがほとんどの学校では、直接の関係はなくとも、利害の一致する者、ないし、理事長の教育方針に賛同する者=言うことを聞く理事によって、多数派が形成されている。

理事長一家による使い込み、特定業者への利益供与など、よほどの不祥事がない限り、理事会は大きな対立もなく、理事長の経営方針によって運営される。時折、まさに今述べたような不祥事が発生し、理事会が大揉めに揉めることがある。最悪の場合は、反理事長派が新たに経営に参画したい有力者を引き込んで、理事長派の追い出しにかかることもあり、格好の週刊誌ネタとなる、

だがこれは「事件」であり、通常は理事会一族によって、粛々と学校が経営されている。日本では、その理事長が外国人であっても同様である。

これは明治時代に、西洋式の私立学校が、欧米のキリスト教団の宣教師によって設立されたという経緯によるものである。

一方、植民地時代を経験しているアジア諸国では、土地の所有、会社の取締役、学校の代表者および理事会多数派を外国人が占めることはできない。とりわけ学校は、国家百年の計を図るところであり、外国人による学校の設立は、「侵略」であると受け取られているのだ。

しかし、それとは裏腹に、前述したように、ナショナルカリキュラムがなく、貧しい地方の公立学校と、富裕な都市部の私立学校には、教育内容に大きな差があるので、学校教育が国内の階層固定の道具になっているのである。

そうしたアジアの現状を考えると、日本の公教育制度のあるべき姿がはっきりしてくる。

一時期流行した「個性重視」「学歴ではなく能力主義」という方策をぼくは支持しない。

「個性」や「能力」は、実のところ、家庭や養育歴によって決まるものだし、ルールが不統一な状態は、不公正=階層の固定=停滞しか生まないからだ。

また、知識重視は変えるべきではない。学校で習得すべき知識=常識が、平均的に高度だからこそ、日本が世界に誇る「民度」が保たれているのであって、無理してアメリカ人のように明るくジョークを言いながらリーダーシップをとる人間像を理想化する必要などないと思う。基礎知識が豊富で、寡黙だが緻密、勤勉な日本人のキャラクターは、国際的な集団の中で仕事をする際、「副官」「参謀」「冷静沈着な技術者」的な役割にピッタリで、それこそ日本人に期待されていることだと思うからである。

日本の教育制度の根幹は、従前のように、貧しい家庭に生まれても、努力次第で比較的安価に高校、大学へと進学することができるように、ナショナルカリキュラムと無償制を維持し、出身、門閥、地縁、血縁で恣意的に選別されることなく、公正な学力検査を中心とした入試で合否を決める制度を堅持すべきである。

私立学校についても、各校の特色を出すことを認めつつ、従来どおり補助金を与え、国家統制のもとに置くべきである。可能ならば、現在でも一部の学校の寄付行為(学則)に規定されているように、理事会に外国人制限を設けるべきである。ただし、私立小学校や中学校を含め、公立学校との学費の差を、家庭への学費補助(バウチャー)等によってなくし、「金持ちでなければ行けない」という風潮は改めるべきである。

ぼくが企画している新しい学習塾は、富裕層の階層固定化の道具になるのではなく、経済格差の中で、ひとり親家庭が8%に迫り、共働き家庭が7割を超える現状にかんがみ、かつての寺子屋のように、地域社会の「共育」の場としての役割を果たすことを主なねらいとしている。

具体的なサービス内容は、発表できるタイミングまで控えるが、こういうパースペクティブが得られたのは、フィリピンと関わるようになってからである。

それまでは、仕事上、入試を悪者扱いにする文科省を批判し、私立学校の「教育の自由」と、生徒・保護者の「選択の自由」を最大限に保証することが、最善だと思っていた。

北朝鮮問題でさえなく、ましてやBABYMETALとはまったく関係ない教育の話かとうんざりされる向きもあろうが、実は、ナショナルカリキュラムを堅持すべきだとか、「新しい学力観」なんてナンセンスだとか、私立学校も国家統制を外すべきではないとか、理事会に外国人制限を設けよとか、知識教育を堅持すべきだとかという論点は、いわゆる新自由主義的な考え方からも大きく外れており、本質的に戦後70年の教育思潮とは正反対で、ぼくの見解に賛同できない方からは「ネトウヨ」といわれてもしかたのないなあと、ぼくは考えている。

(つづく)