余は如何にしてネトウヨとなりし乎(4) | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日9月19日は、2016年、東京ドーム初日Red Nightが行われた日DEATH。

 

中3日になってしまい、申し訳ありません。コメントいただいたみなさま、ありがとうございました。「おおむね同意」というご意見や「技術的に無理」、「浅い」というご批判、すべて受け止めています。しかしまあ、BABYMETALのブログで北朝鮮問題を扱うなんてのは、やはり無理があるというか、バツ2のオジサンがBABYMETALを通じて見える現代の社会を考えてみるという、自分で決めた大まかな方針からもズレてしまう気がして、なかなか筆が進みませんでした。

しかし、たとえフィクションとはいえ、日本古来の稲荷神=キツネ様の意志に従って、音楽で世界をひとつにするという使命を帯びた「アイドルとメタルの融合」、BABYMETALが世界で活躍し、Passcodeや、ゆくえしれずつれずれや、ゆるめるモ!のような先鋭的なアイドルグループが登場し、とんでもない音楽状況が生まれているというのに、隣国が「日本の4つの島を核攻撃で海に沈める」と挑発しているという事態のギャップは、どうしても意識から消すことができません。

(ニューウェーヴアイドルゆるめるモ!の「あの」ちゃん)

 

危機をどう受け止めたらいいのかというオジサンの感情チャンネルと、巨大キツネ祭りを心待ちにするメイトの感情チャンネルは両立するのだろうか?ぼくはいわゆる「ネトウヨ」になってしまったんだろうか?というあがきのような衝動に急き立てられて、書き始めたというのが実情です。とりあえずつづきをアップします。

 

9月15日早朝、北朝鮮は8月29日と同じく津軽海峡から北海道の上空800㎞を通過する弾道ミサイルを発射したが、日本は、このミサイルを迎撃しなかった。

政府は「我が国は、北朝鮮に対して厳重に抗議し、日本国民の強い憤りを伝えるとともに、最も強い表現で非難する。」「国民の方々には、冷静に、平常どおりの生活を送っていただきたい。」という内閣官房長官声明を出した。

インドから帰国したばかりの安倍首相は、ぶら下がりの報道陣に対して「北朝鮮の暴挙は断じて容認できない」と発言し、18日から行われる国連総会で演説する予定という。

一方、北朝鮮国営朝鮮中央通信は13日、国連の経済制裁決議採択を「最も強い表現で非難し、全面的に排除する」との北朝鮮外務省声明を発表し、14日には「日本の4つの島は核爆弾により海に沈められなければならない」とする朝鮮アジア太平洋平和委員会の報道官声明を伝えていた。(Bloomberg他)

9月26日、27日の巨大キツネ祭り@SSAまであと1週間。

8月29、30日の銀&白キツネ祭り@大阪Zepp Osaka Baysideからあっという間の1か月だったが、その間、北朝鮮は2度、日本列島上空を通過するミサイルを発射し、水爆実験を行ったことになる。

18日月曜日は休みだったので、いわゆるお昼のワイドショー、「ひるナンデス」「ひるおび」「バイキング」などをザッピングしながら見てみたが、北朝鮮問題は、売り切れスイーツ情報や豊田真由子代議士の記者会見と並列で語られ、識者たちがアメリカはどう動くか、中国・ロシアはどうするかといった議論を展開していた。内閣官房長官声明通り、「冷静に、平常通りの生活」が営まれているようである。

もちろん、ぼくも仕事の資料をまとめたり、家の掃除をしたり、おかずを作りだめしたり、睡眠負債を返済するために午睡したり、ギターの弦を張り替えたり、グダグダの日常生活を送った。

だが、18日午後になって、安倍首相が9月28日に召集される国会の冒頭、衆議院を解散し、10月22日に投開票となる衆議院議員選挙を行うという方針を固めたという報道が流れると、ちょっと気が引き締まった。

政府が国民に、「冷静に、平常通りの生活を送っていただきたい」と声明したのは、どうせ戦争など起きないから安心しろということではない。国民の安全と平和を守るのは、政府の最重要課題である。国民に対してわざわざこのように声明しなければならないほど、危機が迫っていると考えなければならない。

そして、このタイミングで衆議院議員選挙を行うのは、北朝鮮危機に対して、安倍首相が政権基盤を再び盤石にするためなのだろう。

戦後最長の長期政権となった第二次安倍内閣は、北朝鮮の金正恩体制の確立と相次ぐミサイル実験、金正男氏の暗殺といった事件が起こる中、安保法制、テロ等準備罪法案の成立を進め、今年5月には、自民党総裁として初めて憲法改正(加憲)の方針を明らかにした。

これに対して、民進党、日本共産党、社民党などの野党は、戦後70年間それなりに日本の平和と安定を維持してきた基本政策の変更に反対し、年初から森友学園、加計学園「問題」、稲田前防衛大臣や金田法務大臣の失言などを巡って攻勢を強め、マスコミの多くも、豊田議員の秘書への暴言、都議選での首相自身の「こんな人たち」発言の切り取りなど、政権の「スキャンダル」を報道した結果、内閣支持率は一時20%台にまで落ち込んだ。

しかし、8月に内閣改造が行われ、国会閉会中審査で森友・加計「問題」に首相が不関与だったことが明らかになり、それを報道しないマスコミの「偏向報道」批判がネットを中心に巻き起こり、民進党の蓮舫代表の辞任劇、山尾志桜里議員の不倫スキャンダル、そして北朝鮮の核実験、ミサイル発射の危機的状況の現出によって、安倍首相の求心力は強まり、支持率は回復してきた。

都議選でブームを巻き起こした小池百合子都知事の国政「与党」となる新党の準備もいまだ整っていない。

安倍首相にしてみれば、9月解散-10月選挙というタイミングは、千載一遇のチャンスとなっているということなのだろう。

だが、何のために今、安倍首相は政権基盤を再構築しなければならないのか。

野党は、「安倍政権の延命のための大義なき解散」などと言っているが、これは、間違いなく、北朝鮮危機に対応して、政権として国民の広範な支持を得るためである。

つまり、この選挙は、戦後初の安全保障を争点とした選挙となる。

ボールはぼくら有権者に投げられている。

 

北朝鮮が、日本列島を通過して、グアムまたはハワイを攻撃できる弾道のミサイルを発射したとき、当たっても当たらなくてもそれを迎撃することは、ヘリクツを駆使すれば、現状でもできるとぼくは考えている。

野党は「戦争法案」とレッテルを貼ったが、安保法制の当初の目的は、国連憲章にも保証されている集団的自衛権にもとづき、安全保障条約を結んでいるアメリカが攻撃されたとき、友軍として共に戦うことができるようにするためである。また、結局、条件規定によって実現不能となったが、自衛隊が海外にいる日本人を保護するために出動することを可能とするためである。

日本国憲法は、戦争の放棄を明言しているが、自衛隊は侵略のための軍隊ではなく、国連憲章で認められた個別的自衛のための「実力」なので合憲だということになっている。したがって、北朝鮮のミサイルを撃墜したり、北朝鮮に拉致された日本人を救出するために米軍とともに出動することは、国際紛争を解決するための「交戦」ではなく、自衛と邦人保護のための「実力行使」だとヘリクツをいうことができる。

本当に、国際社会がけん制しあってお見合い状況になっている今、北朝鮮のミサイルを撃墜して見せたら、欧米諸国は拍手喝さいし、海外首脳の安倍人気はますます上昇するだろう。

だが、北朝鮮、中国、おそらく韓国も、強烈に非難するだろうし、日本の新聞、テレビ、文化人も一斉に憲法違反だと批判するだろう。マスコミ人や文化人の多くは、基本的に学校で教わったことを疑わない成績優秀な“いい子ちゃん”なので、War Guilt Programの価値観を死守するのがアイデンティティとなっている。金正恩にお金をあげてミサイルを撃たないようにお願いするという島田雅彦の造語でいえば“優しいサヨク”なのだ。だから安倍政権を、戦後70年間の体制を覆す「戦争内閣」だとレッテル貼りするのだろう。

それがネックになって、現在の安倍政権は、実際にはミサイルを撃てない。

米軍とともに北朝鮮へ上陸し、拉致被害者を救出することもできない。

そうしたことを合法化するために、日本国憲法を改正しようとする安倍首相の最終的政治目標も達成できない。

森友・加計学園「問題」その他、様々な切り口による新聞、テレビ、マスコミの安倍政権批判の大合唱、それに国民の多くが感情的に動かされてしまう現状では、ミサイルを迎撃したり、拉致被害者救出のために北朝鮮に攻め込むなんてことは、「戦争の口火を切ること」であって、絶対にあってはならないことなのだろう。

 

実はぼくもかつて“優しいサヨク”だった。

1960~70年代初頭に東京都下三多摩の小学生だったぼくは、社会党のシンパだった母親の影響で、SU-と同じように8月6日の広島原爆記念日には、黙とうをささげる習慣をもっていた。にも関わらず、どういう背景があったのかわからないが、東京都の理科教育研究の対象生に選ばれたぼくは、月1回、他校で行われる理科特別授業研究会に通った。そこでは、原子力発電は「日本の科学技術の粋」「人類の英知」だと教わり、合同チームで発表するための自由研究もしたと思うが、内容はもう忘れた。

中学1年生の時に、父親の転勤で千葉県に引っ越し、転校先の中学でイジメに遭い、本ばかり読んでいるうち、文学少年になり、高校ではハードロックと演劇にのめりこんだ。大学に入った年、スリーマイル島原発事故があり、反核・反原発は同義語となり、社会人になった頃、チェルノブイリ事故があり、核=アトムは悪役になった。

以前書いたが、ぼくは大学に入ると、ギターを捨てて学生演劇をやりながら、芸能史や大衆社会史を勉強しつつ、新左翼党派の色が強い学内運動に一般学生として関わるようになった。

80年代初頭、学生運動はもはや時代遅れだったので、現役一般学生で、怖いもの見たさにいろんな集会に首を突っ込む奴は、その道の先輩たちには貴重だったらしい。他に手を挙げる学生がいないので、やがて、同じく一般学生だった先輩の女性委員長を継いで、文化部団体の委員長になり、大学祭の実行委員長にもなった。学生会議のある金曜8時にはプロレスばっかり見ていたけれど。

うちの大学は内ゲバの果てに、表向きは一つの新左翼党派が牛耳っていたが、実際には一般学生を装って、弱小新左翼党派、旧左翼党の青年団体、宗教団体、カルト団体が入り込んでいた。それらのオルグから「新聞買ってくれ」「学習会に来ないか」とよく勧誘されたが、絶対に入らなかった。実現不可能なのに重箱の隅をつつくような不毛な政治哲学の議論にはつき合いきれなかったし、彼らの生活基盤になるお金の出どころが相当胡散臭いと気づいていたからである。学納金から天引きされる各学部の自治会費が彼らの収入源だったから、新左翼党派は、大学自治会の執行部をとるために文字通り血みどろの闘争をしていた。また、弱小党派の中には中共や北朝鮮のレポになっていた奴もいた。あの頃、拉致事件が起こっていたのだ。何も知らなかったし、知っていたとしても何もできなかっただろう。胸が痛い。

ぼくは学費値上げ反対や移転阻止などの学内集会といくつかの学外集会や学習会に参加するだけだったが、3度目の3回生になったとき、活動からキッパリ足を洗い、卒業まで学生会館には二度と足を踏み入れなかった。後輩には申し訳なかったが、アルバイトと卒業単位の取得とフランス語と大学院受験の勉強に没頭した。

アルバイト先の大手学習塾の社員になってから、学生時代の先輩で、文化団体の前委員長だった女性と再会し、結婚した。それが、つい先日26歳になった長女の母親である。

大手学習塾を辞め、独立して小さなコンサルティング会社を設立してからは、全国の学習塾の先生や、私立中高の先生、公立中高の先生、企業の方々と知り合いになった。

バブル経済に向かう頃で、教育界は、公教育制度の見直し、サービス業としての教育の方向へパラダイムチェンジするところだった。

中学や高校の先生の中には日教組や全教に属している方々がいたし、予備校・学習塾にも新左翼出身者がいた。前者は、生活が安定している分、現状維持的な「抵抗勢力」だったが、後者は、高学歴で知的な方が多く、入試の参考書などを執筆していた。たいていは先輩にあたる方だったが、10年も若いぼくが、新左翼党派の動向や人脈を色々知っていることに驚かれたり、面白がられたりして、人脈づくりの役に立った。

つい先日の加計学園問題でも明らかなように、教育界は文部科学省を頂点とした既得権益の塊である。功なり、名遂げた企業経営者が、学校経営をしてみたいという需要は多かった。だが、私立学校は株式会社ではないので、学校法人を株式の取得によって「売買」することはできない。あくまでも学校法人理事会の多数決で、理事長や経営方針が決まる。

仮に、経営不振の私立学校の経営を、古い経営陣から新しい経営者が譲り受けるという場合でも、そこに金銭の媒介があったら違法である。あくまでも学校法人への「寄付行為」により、旧理事会が多数決で新しい経営者に経営を委ねるという形をとることになる。

とはいえ、豊富な資金を持ち、ビジョンを持った新しい経営者が古い学校の体質を変え、学校の名前も変えて新しい進学校に生まれ変わらせるということは、この間よく起こった。そのいくつかにぼくも関わった。

経営者交代というドラスティックな改革でなく、中学校の新設や高校の進学コースの新設というコンサルティングに関わることも多かったが、その場合でも、教科ごとの単位数=週当たり時間数を変えるとか、カリキュラム・シラバスを変えるには、学習指導要領の枠を逸脱してはならなかった。市場で求められることと、学校設置基準、学習指導要領など、法的な公教育としてのレギュレーションの調整、それをどう市場に向けて訴求し、生徒募集に結びつけるかのアイデアを出すのがぼくの主な仕事だった。

このころ「株式会社立」の学校が認可されるようになり、いくつか鳴り物入りで設立されたものの、私立の学校法人が補助金を受けられるのに対して、株式会社立では補助金を受けられない。補助金をてこにガチガチに規制に縛られるのが学校だが、補助金を受けられないのでは、よほど母体に余裕がない限り、日本の学校経営は成り立たない。結果、株式会社立学校のほとんどが10年持たずに、通常の学校法人に組織変更している。

そういう規制の中に日本の公教育制度はある。それにも公平性という意味で一定の意味があるし、業界人としてはその中で仕事をしていかざるを得ないのだが、前にも書いたが、問題は、ちょうど前川喜平氏や寺脇研氏が文部次官や初等中等局長として担った1990年代~2010年ごろの時期、日本の文部行政が、明治以来の公教育の原則を大きく曲げたことにある。

1960年代~70年代の学習指導要領の教育目標は、高度経済成長を支える高度な技能と日本への忠誠心(期待される人間像)を持った人材の養成であった。だが、これは当時非常に評判が悪く、1990年代以降、中央教育審議会に様々な識者を招いて、幾度かの学習指導要領の改訂が行われ、次のような「改革」が行われた。

「“新しい学力観”で、子どもの興味・意欲・関心を評価する」

「画一的な入試をやめ、推薦入試を導入する」

「相対評価をやめ、担任教師による主観=絶対評価をとり入れる」

「究極の相対評価である“偏差値”を追放する」

「教師の創意工夫に頼らず、教え方を平準化する」

「“総合的な学習の時間”を設定し、戦後間もない頃のコア・カリキュラム(バージニアプログラム、生活学習)を復活させる」

「子どもをやたらと競争させず、傷つかないようにする」などなど。

現場のマニュアル化も進んだ。

この間いくつも起こったいじめ事件への対応では、いくつも現場へ配布するパンフを作成し、“いじめの兆候”となる指標を細かくチェックさせるようにした。結果、その指標から外れていればいじめはなかったことにされた。

教え方は“平準化”され、それが教材会社のプリントになった。子どもが「解き方」の創意工夫をすることが許されないようになり、算数は暗記教科になってしまった。

一言でいえば、「個性尊重」の掛け声とは裏腹に、教師も生徒も、自分の頭で考えないように、また順位が出る競争や、努力をすることがあたかも「悪いこと」のようにとらえられるようになってしまった。

いったい、この間の日本の教育目標は何であったのか。

矢継ぎ早の「改革」のただ中に、私学や学習塾のコンサルタントとして仕事をしてきたぼくは、その都度、自由や平等ではなく、「公平性」を物差しにして批判してきた。

そして日本の公教育制度が、本質的にどういう意味を持ち、どう変質していったかを大局的に見る契機になったのは、40代になってから、コンサルタントとしての仕事を減らし、東南アジアに頻繁に行くようになったことだった。

(つづく)