余は如何にしてネトウヨとなりし乎(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日9月14日は、2014年、BABYMETAL WORLD TOUR 2014幕張2日目が行われた日DEATH。

 

手塚治虫『鉄腕アトム』の「ロボット宇宙艇」という巻は、ベガ大佐という女性独裁者が司令官を務める“ブロンズ共和国”の暴走を描いたストーリーで、巨大な要塞戦艦“人工島”がその舞台である。

お茶の水博士とアトムは、部品ひとつひとつが今でいうA.I.から構成され、必要に応じて自在に組み替えが可能なA.I.宇宙戦艦“ロボット宇宙艇”を開発していた。

ベガ大佐は、本国からの指令に応じて、“ガンガラ島”を急襲し、保管してあった水爆を奪取、それをもって日本、アメリカをはじめとして、世界を脅迫する。そしてスパイを使ってロボット宇宙艇のキーとなるエンジンレバー(のA.I.)を入手する。手下の科学者ポポ博士の手で、世界征服の武器となるロボット軍団を作成するためである。

ベガ大佐は、何を思ったかポポ博士に命じて、エンジンレバーのA.I.を、死んだ自分の息子トムそっくりのロボットに変形させていた。どうやら、この女独裁者には、過去に夫と息子を失った悲劇があったようなのだ。

実はロボット宇宙艇の部品たちは、すべてアトムの声による号令がないと動かない設計になっていた。そこでポポ博士は、エンジンレバーであるトムを取り返しに来たアトムを罠にはめ、アトムの声帯を奪い、それを使って偽アトムを作り、ロボット軍団の開発に成功。

ベガ大佐の人工島とロボット軍団による世界征服戦が始まる。

都合よく人工島を脱出したアトムは、お茶の水博士のもとに帰り、開発したロボット宇宙艇を使って全面攻撃をかけ、お約束通り大勝利。アトムは沈みゆく人工島のベガ大佐を救おうとしたが、彼女は救出を拒否し、人工島とともに滅びる…。

ベガ大佐というドSクイーンの独裁者が、実は悲劇を内包する母親だったという設定は、悪役にヒューマニティを持たせるドラマツルギーの常とう手段だが、なんかプロット上とってつけた感じだし、せっかく奪った水爆をなんで使わないんだとか、トムの記憶があるわけでもないエンジンレバーがなんでベガに惹かれるのかわからないとか、ロボット宇宙艇がそんなに強いならなんで最初から使わないんだとか、ツッコミどころ満載であるが、いずれにしても、アトムは、人間のために働く、原子力発電機を内蔵した100万馬力のA.I.であり、ロボット宇宙艇も、世界の平和を守るための最新最強の戦力として描かれている。

敵は水爆を脅しに使い、科学技術によって世界征服をたくらむブロンズ共和国の女独裁者。

しかし、深読みすれば、小国だったブロンズ共和国に生まれたベガ大佐の夫と息子を奪ったのは、「ちょっと前にあった大国との戦争」であり、彼女はそれを大いなる恨みとして、あらゆることを犠牲にして部下に厳しい独裁者となり、復讐戦をしかけていたのかもしれない。そこには、彼女なりの正義があったかもしれないのだ。

だが、結局「こちら側=日本人の側」にいるアトムが勝つ。主人公=ヒーローなのだから、戦って勝たねばならない。これが科学技術立国日本の未来なのだと幼いぼくは思った。

学校で習うのは、日本は戦争に負けた。戦争は悪いことだ。だから日本は憲法で二度と戦争をしない国になったのだ。にもかかわらず、アンポという悪い条約でアメリカ軍の戦争の手伝いをさせられているのだというような「教え」だった。

しかし、テレビの中のヒーローは毎日毎日強大な敵と戦っていた。

子ども向けの物語やアニメ、ドラマは、それ自体エンターテインメントではあるが、現実社会を反映した暗喩でもある。

地球は子どもの故郷、日本のことであり、宇宙は外国のことであり、そこから来る侵略者は仮想敵国のことである。もっともそこに登場する“敵”は、子ども自身の成長において克服すべき課題を表象するものだったりもする。例えば世界征服をたくらむというのは幼児的万能感、社会を混乱に陥れるというのはいたずらや我儘、青血病や死ね死ね団というのは怠惰と無気力の謂いである。

それはともかく、50年代の「ゴジラ」に始まる怪獣映画と異なり、60~70年代のテレビアニメ・特撮ヒーローは、すべて生身の人間=日本人ではなかった。

鉄腕アトム、鉄人28号、ジャイアント・ロボはロボットであり、エイトマン、サイボーグ009、仮面ライダーは改造人間で、ウルトラマン、ウルトラセブンは正義の宇宙人だった。

マグマ大使だけは、宇宙人ゴアの侵略に対して、地球(≒日本)の神アースが生んだ守り神で、鬼みたいな角と連獅子みたいな髪の毛がついた歌舞伎顔なのに、飛ぶときにはロケット(≒科学技術)に変身するという変てこなキャラクターで、“日本の底力の象徴”だったのかもしれない。

ヒーローというとちょっと違うけど、ゲゲゲの鬼太郎やオバQや怪物くんや妖怪人間ベムはなぜかお化けだった。

60-70年代のテレビアニメで、生身の日本人がヒーローになるのは、巨人の星とか、あしたのジョーとか、タイガーマスクとか、全部スポーツ根性ものだった。

宇宙人の侵略や巨大怪獣と戦うアニメ、特撮ドラマの場合、戦闘場面で科学特捜隊とか地球防衛軍とか、自衛隊っぽいのが出てくることもあるけど、全然役に立たない。少年である主人公以外の生身の日本人は、敵の犠牲になるか、足手まといになるか、よくてヒーローのサポートをするだけだった。

かくして、テレビ第一世代のぼくらは、ヒーローの活躍にワクワクしながら、生身の人間(≒日本人、自衛隊)は弱く、ロボット、改造人間、正義の宇宙人などの人間じゃないヒーロー(≒日米安全保障条約にもとづく米軍)が守ってくれるのだ、自分がヒーローになりたければ、スポーツをやれ、という無意識の刷り込みを受けたのである。

潮目が変わったのは、「宇宙戦艦ヤマト」(1974)からだと思う。

それまで、アニメや特撮もので外敵と戦うのは、ロボットやサイボーグやウルトラマンなど、人間≒日本人ではないヒーローであった。

過失によって殺してしまったハヤタ隊員の命と引き換えに、地球人のために侵略者と戦うウルトラマンの設定は、かつて広島に原爆を落とし、日米安全保障条約に基づいて日本を守る米軍のイメージそのものではないか。

ところが「ヤマト」では、デスラー総統率いる独裁国家ガミラスからのミサイル攻撃に、なすすべもなく荒廃した地球を救うために、最後に立ちあがったのが日本人であり、しかも九州の海の底に眠っていた戦艦ヤマトを改造した宇宙戦艦に乗って戦いに赴くというのだから、モロである。アニメ初放映時には、あからさまな設定に「これは愛国右翼アニメだ」と言われ、視聴率は低迷したが、再放送から人気が出始め、70年代後半から80年代のアニメブームの導火線となった。

同時期の「マジンガーZ」(1972-74)以降、主人公が運転するスタイルの巨大ロボットアニメが生まれたが、それが「機動戦士ガンダム」(1979)や「超次元要塞マクロス」(1982)や「新世紀エヴァンゲリオン」(1995)に発展すると、オブラートに包まれてはいるが、主人公の少年少女(≒日本人)が、実際に外敵と戦う主体となり、戦いを巡って悩んだり成長したりするようになる。70年代の単純なあなたまかせの勧善懲悪とはレベルが全然違う。

かくして80年代以降の日本のアニメは、自ら戦うことを巡る暗喩となるが、少年向けアニメとしては、社会で働くこと、日本人として生きることの意味を巡る思考実験でもある。だからこれらのアニメを見ていると、戦いの相手がだれなのか、そもそも何の話だかよくわからなくなってしまうことがある。

「機動戦士ガンダム」の最初のテレビシリーズの最終話のアムロの最後のセリフは、上官から戦う理由として敵の政治体制を聞かされ、初めて聞く言葉だったので思わず発した疑問形の「…独裁?」だった。(と思う)

男の子向けアニメが、「外敵と戦う主体」を巡ってこのような展開をしていったのに対して、女の子向けアニメの場合は、一貫して内的成長を主題としているようにぼくは思う。

ジェンダー論に深入りするのは避けたいが、「魔法使いサリー」や「秘密のアッコちゃん」や「リボンの騎士」の時代から、女の子向けアニメの設定やプロットは、女の子の主人公が、その子にしかない“不思議な力”で日常生活に起こる問題を解決し、運命を切り拓いていくという話である。

その“不思議な力”というのが、視聴者である女の子自身の中にまだ眠っている「女性としてのアイデンティティ」であることは明白で、かくしてプロットは男性優位社会で、第二の性(ヴォ-ヴォワール)であることを受け入れざるを得ない現実の反映、暗喩となる。

女の子向けであっても「外敵」が登場し、色付き戦隊ものになった「セーラームーン」や、格闘技的要素を取り入れた「プリキュア」シリーズでも基本的には変わっていない。もちろん、MOAやYUIが大好きな「きらりん☆れぼるーしょん」や「ラブライブ」や「けいおん」では、目指すものがアイドルだったりバンドだったりするが、女の子の自己実現という意味では同様である。

 

さて。

「外敵との戦い」を巡る日本人の思考は、戦後長らく、GHQ主導によるWar Guilt Program~「1億総ざんげ」がベースにあった。学校教育とマスコミがその2大拠点だった。

しかし、サブカルチャーにおいては、60年代にアニメやSF特撮ドラマによって、人間≒日本人は弱く、人間ではないヒーロー≒すなわち日本と同盟しているスーパーパワー、米軍によって守られるのだというサブリミナルな刷り込みだったのが、80年代以降には、主人公≒弱い日本人も悩みながら戦うべきではないか、戦う意味は何かといった思考実験へと移行してきた。これは、サヨクの人たちが言う「右傾化」とほぼ並行しているように思う。

インターネットの普及によって、戦争で悪いことをした日本という刷り込みの多くが、事実と異なっていることが次々と明らかになり、それを知ったネットユーザーから、これまでのマスコミや学校の先生は、特定の予断や偏向を持って、そうしたインフォームないし教育を行っているのではないかという疑念が生じているのが現状である。

現在、北朝鮮のミサイル危機にあって、「外敵との戦い」および「日本という国の在り方」に関して、今、日本人の国論は二分されているように思う。

世代的には、個人差を無視して大雑把に言えば、昭和20年代(1945-55)生まれの団塊の世代と、昭和30-40年代(1955-1975)生まれの世代対立が軸にある。

前者は、幼い頃War Guilt Programを叩きこまれ、学生時代に左翼運動を経験し、社会人になってからは、新聞、テレビ、雑誌が情報のすべてだった世代。だからいまだに戦後レジームの中にいる。

後者は、オジサンに見えても学生運動はすでになく、その代わりにサブカルチャーに接する機会が多く、社会人となってからはパソコン~Eメール~インターネットを通じて仕事をしてきた世代である。子どもの頃に習ったのとは違うという後ろめたい思いもあるが、色々考えてみると戦後レジームは間違っているという立場である。

職業的に言うと、公務員や学校の先生は、基本的に成績優秀ないい子ちゃんなので、年齢を問わず前者のグループに居ることが多い。新聞記者やテレビ局の社員も、高学歴がないとなれないので当然前者だが、出版社にはいろんな人がいますね。

テレビを主戦場とするタレントは、PやDに従わなければならないので、前者のグループに居ることが多い。ただ、テレビに出ているオジサンでも、昭和30年代以降生まれの官僚出身者やジャーナリストの方々は、マスコミの偏向を批判し、安倍政権を擁護することが多く、外観に似合わず、1990年前後の出始めの頃からパソコン通信~インターネットに習熟し、アニメやアイドルにも造詣のある方が多い。

現在20代~30代の若い世代は、基本的にインターネット時代に育ち、サブカルチャーの影響が大きいので、戦後レジームには批判的な人が多いと思うが、父母や親戚縁者がサヨク系の場合は“跡継ぎ”になっていることがありますね。サヨク政党や労働組合の幹部、専従の子どもとか、COOP協力企業社長のジュニアとか。

特筆すべきは、ポスト団塊世代グループのジュニアにあたる現在20代の論客には女性が多いことである。

それで、北朝鮮ミサイル危機に関する地上波、BSテレビでの識者の議論、YouTubeで見られる配信番組の議論などをひととおり見ているのだが、誰もはっきり言わないことがひとつだけある。

昭和35年生まれで、本は好きだが、テレビはBSを含めて番組を選んでしか見ず、情報は基本的にネットに依拠し、世間的にはBABYMETALやアイドルやアニメのことばっかり書いているブロガーであるぼくの意見はこうである。

もし、北朝鮮が次にわが国の領空上を飛び越える弾道ミサイルを発射したら、自衛隊は、撃墜できなくてもいいから、撃て。

(つづく)